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人間の本質と語ること

 昨晩、語ることや言語が人間の本質だとつぶやいたことに対して、なぜそれが人間の本質だといえるのかと質問を受けました。短文ではたぶん伝わりづらいところもあると思うので、ここに書いておきたいと思います。

 「本質」という言葉は誤解の生じる言葉だとは思いました。基本的には突き詰めると本質なるものはたいてい「ない」と結論づけられることが多い。人間でも何でもいいですが、それにはいくつかの条件はあってそれらから規定することはできるでしょうし、これまでもなされてきました。それが共通理解として多くの人に共有されると、「たしかにそうかも」と思うようになるのでしょう。それでも、「本質」だと言い切れるかどうかが不明のことが多い。

 「人間は語る存在だ」と言ってもよかったかもしれません。しかし、この言い方にしてもたぶん私の中では「語ることが人間の本質だ」ということと同じことになるので、「本質」という言葉をこれまで使ってきましたし、使いました。一方で、様々な事情によって語ることができない人々も一定数いるわけで、この言い方を前提とすると人間の条件としては当てはまらないことになり、ここには注意は必要だろうと思います。
 
 語るということは、日常的な行為です。私が誰かに語る、誰かが私に語る、私が私に語る。テキストも書き手が書き、語り手が語ります。この時、「誰に?」というのは想定された読者や聞き手ということもあるでしょうし、具体的に読む私たちのような読者がその語りを自分に向けられたものだと考えることもできるでしょう。

 国語教育の世界では、こういう語ることの側面に①何を語るか、②いかに語るか、の二側面が多いように思います。

 ①の「何を語るか」については、たとえば読解の時に何が書かれてあるか、その情報の取り出しやその意味するものを理解することが主だろうと思います。これは入試問題や試験問題を解く時に中心となる視点でしょう。ここでは語られた言葉の意味がわからなかったり、抽象度の高い語彙や歴史的に長く議論されてきた概念などがでてくると読めないこともあるわけで、こうした言葉の意味を丁寧に押さえて、それをこれからの自分の読解に活かしていくために少しずつストックされていきます。

 また、何かを語るということは、語られない何かがあります。私たちは見たもの聞いたもの考えたことをすべて語り尽くすことは基本的にはできず、自分の関心に沿って選択していっています。これなどはたとえば複数のテキストを合わせていくことで、最初のテキストが何を語っていなかったのかを明らかにすることができるでしょう。このような学習過程を設けることで、ある書き手や語り手の偏向性や関心や欲望について理解することができるでしょう。
 
 
 ②の「いかに語るか」については、たとえばどのような構成にしたら相手を説得しやすくなるのか等の表現の工夫があると思います。どうしてこういう言葉遣いをしたのか、またはなんで物語の設定をこのようにしたのか(『源氏』の紫の上と源氏との間に実子がいなかったのはなぜか等)、そんなことも含まれるでしょう。「こころ」でも、なぜ「先生」は自分がKを殺してしまった責任のあるような書き方にしているのか、こんなことが問題にできるでしょう。語り方に注目することです。


 ①と②では、書き手や語り手の意図なるものはあったと思いますが、それが読者に伝わるとは限りません。しかし、「こういうことが書いてあるってことはどういう問題意識があったのか」とか「こういう書き方にすると読者にはどのような印象を抱かせると考えられるか」などの問い方は可能だろうと思います。

 私としては①②に加えて、③なぜ語るのかに関心があります。そもそも人が言葉を発することの意味、語る行為の意味、このことを考えてしまいます。これはテキスト中の登場人物や語り手(「少年の日の思い出」の「私」がなぜ「客」の話を語ったのか、「ごんぎつね」の語り手がなぜごんの物語を語ったのか、「こころ」の「先生」はなぜ「私」に遺書を書いたか)ということです。評論文ですと、ある危機意識、問題に感じたことを誰かに伝えたいということもあるでしょう。

 私はこういうテキストを読み取り、テキストの書き手や語り手がそもそもなぜ語るのか、語ろうとするのか、ということから「人は他者に語らざるをえない存在なのだ」という認識で授業を構成しています。このことは、テキストの言語行為と私たちの日常の言語行為がクロスする瞬間、接点をもつ瞬間、「ああ、こういうのって自分たちにもあるよね」とか「ああ、こういうのがあったんだ」という瞬間を授業の中で生み出していきたいと思っているからです。ここではかなり書き手や語り手を実体化しています。
 語ることは必然的に他者を要請していくものであるし、この世界は大勢の他者とともにある以上、これは人の生に関わる問題だとも思っています。語ることから始まる、といってもいいかもしれません。そして私はここを出版点としています。

 だいたいこのような考えで、(①~③はスッキリと分けられるものではないと思います)私は語ることやその言語は人間の本質だ、と書きました。ここではある種の信念や信仰に近いものというか、信念や信仰だと考えてもいいと思います。もちろんすべてがこの「本質」で説明ができるわけではありません。少なくとも、こういう考えや立場で授業をしていく方が「何を」語ったかだけでは終わらないことの方が多い、というのが現実的な問題だろうと考えています。
 また、これは書き手というか表現をする人の存在を無視することを避けることができるのではないかとも思っています。「人は何かを語らざるをえない存在」、「人の本質は語ること」と設定しておけば、そこには必ず語り手がいて人として排除されない形で読者と対話する場を設定できるのではないか、という考えです。

 「対話」と書きましたが、これは単なる会話ではなくて、その人を認め、その人もまた認められうる、しかし必ずしも融和だけではなく対立のあることです。あるテキストの書き手の意見を批評する、ということは大切なことですが、そもそもなぜこの書き手はそんな意見を書いたんだろうか、というところまでを引き受けて、そこをも含めて応答していくことが必要だろうと思っています。テキストを読むことが、生徒たちの日常の語ることについての内省や発見につながるようにしたいと思っています。

 これはかなり理念的な話だろうというのは自覚しています。現実問題こうした授業を設定することがどこまでできるのかも難しいとも思っています。
 しかし、この立場から私はいろんな実践には意見をしていくと思います。私は教材ベースで授業をする人間なので、その教材の可能性を書き手や語り手の語る行為の深さに注目していきたいと思っています。したがって、この深さの軽視はもとより、誰かが何かをどのようにしてそもそもなぜ語るのか、ってことをほとんど考えていない授業についてはやっぱり批判もします。
 もちろん、教材ベースではない授業はたくさんありますし、この立場では実践できないものもあるでしょうし、必ずしもこの立場で授業ができるわけではありません。私自身もずっとこの立場で授業をするわけでもありません。しかし、この立場で分析、構想ができるような授業に関しては意見を述べていきたいと思います。
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