fc2ブログ

ニコニコ超会議、質疑応答

 ニコニコ超会議というのがあって、「みんなで翻刻」というのがありました。
 その中で最後に質疑応答があって、これは大事な議論だろうと思うので参考までに文字おこししておきました。
 誤字脱字等あると思いますが、見つけたら教えてください。
 超みんなで翻刻してみた@ニコニコ超会議2018[DAY2] 【5:17:38~5:39:07の間】

*「エバイショウ」をスルーしてしまってました。「絵俳書」に訂正しました。コメントくださった方、ありがとうございます。

質問者
 クーラとか「みんなで翻刻」っていうそのコミュニティーを作って、江戸時代の、今までだったら発掘されてなかったような文献を翻刻して知識を獲得していくっていうのは私はすごく良いことだと思うんですけど、同時に獲得した後、現代に知識をどう還元していくのかっていうのを、今の時点でこういう方法でやっていこうとかいうことがお考えでしたらお聞きしたいと思います。

飯倉先生
 今のところそういう展望は具体的に考えているわけではないんですけど、その還元というのは大切なことで、かりに翻刻したとしてもそれはまだいわゆる古文であって、それを今度は現代語訳、あるいは英訳しないとちゃんと現代の人には通じないという、そういうところがありますよね。おそらく「みんなで翻刻」の次にくるのは、「みんなで現代語訳」、「みんなで英訳」、「みんなでフランス語訳」、そういったところにいくのかなという風には思っていますけれども、やっぱりその中でも僕たちが特に紹介したいもの、そういったものがあると思うんです、それは人によって違いますけれどもど、そういったものをピックアップして、それを強く強調して、なんかのサイトを作ってやっていくっていうことが今ちょっと思いつきですけど、考えられるかなと思います。

キャンベル先生
 すごく良い質問です。橋渡しが必要だと思うんですね。理系に科学技術インタープリターという資格といいますかプログラムがあるんですね。文系も理系も学生が、たとえば、何か自分の勉強をしながら、ある学科に所属をしながら、そこで学んでいる、特に理系の知見を一般社会にどういう風に、まさに共有をするのか、あるいは具体的な立案をして、いろんな人々の生活に役立てるのか、あるいはメディアの中でそれを展開していくのかっていうことを同時に学ぶということですね。文系にないんです。日本の文系にはそういう読めばわかるという戦後ずっと高等教育の中で読まない人は読まないということがあるんだけども、実際にみんな今日翻刻をしてくれててわかるように、けっこうハードルがあるんですね。今飯倉さんがおっしゃったように、翻刻をしたとして、じゃあ誰が句読点を入れるのか、えーこれ引用括弧がないから読みづらいとか、現代語訳にしないとわからないということはいっぱいあるので、同時にできれば同時にそれをインタープリットをしていく、つまり解釈をしていくってことを、まず日本の古典を研究している若い研究者に一つの職能としてそういったものを広めていくことが、それが認知されることがとっても大切だと思うんですね。
 そういう意味で、これ小さな試みですけど、昨年から国文学研究資料館ではそういう古典インタープリターという肩書きを作って、若い助教ですね、若い研究者に、非常に専門的な江戸時代の文学の専門家、女性の若い研究者ですが、彼女の研究をどういう風にそれを一般に伝えていくのか、いろんな企画立案をしたり、展示を作ったり、アプリを作ったり、どうやってつなげていくかということを仕事としてやってもらうようにしているんですね。
 もう一つは先ほど還元をするという話、いろんな還元の仕方があると思うんですが、一つは私たちが今やろうとしていることは、古典、古典文学にそもそも関心はあるけれども、専門的な知識がない、他の分野のプロフェッショナルが実際にたとえば国文学研究資料館に来て、触れながら、でそこに研究者たちが一緒にナビゲーションをして、その人がその人の分野の中で使えるように、資源化していくという試みをしてるんですね。今アーティストインレジデンス、招聘芸術家、三人を招いて、それぞれの分野で一人はアニメーション作家、もう一人は小説家、もう一人は舞台芸術家ですね、その人たちに毎月来てワークショップをしながら、その人たちの関心に応えるように、いろんなまだ翻刻していない資料を見せて、翻字をしながら現代語訳しながら、その人の新しい表現のきっかけにするということをしているんですね。今の日本の学会の中では、これから就職をする、たとえば教職にいくとすると、そういうことができるということがとても、実は今の日本の大学の中で求められている職能スキルだと思うんですが、あんまりそれはどういうことなのか、なにがどういう風にできればそうなるのか、はっきりとルールが決まっていないんですね。なので「みんなで翻刻」が一つの大きなきっかけとなって気流を起こして、特に若い研究者たちの育成ですね、これからの変わる日本のその研究、あるいは教育の現場の中で橋渡しができるようなことにしていくことは、それがすごく僕はこのプロジェクトの一つの大事なポテンシャルじゃないかと思ってます。

質問者
 やっぱり文学だと文学で閉じてしまっていたりとか、地理だと地理で閉じてしまっていたりとかして同じ時代を点検しているんですけど、江戸時代の生活をなんとなく立ち上がるように再現するっていう研究がこれまでされてきていなかったのかなっていうのが自分が大学にいて思ってて、こういうネットの営みでいろんな分野の江戸時代の研究をしている人とかくずし字が読める人が集まってくるのはすごくちょっと面白いなって思いました。


質問
 古典を読める人は一握りでよいという風潮がある中で、なお古典知を継承していく意義をどのようにお考えですか

飯倉先生 
 まああの、古典知っていうのは単に読めるっていうだけの問題ではないと思いますね。古典の中には先ほどのキャンベル先生が紹介してくれた本の中にもありますけれど、我々の現代では完全に出てこない発想とか考え方が埋もれていて、そういった考え方っていうのは、いくら今テクノロジーが進展してどんな便利なことがあっても、何か人間がそれだけで本当に幸せになっているかというと、必ずしも、便利であるということが幸せとは通じませんよね。しかし江戸時代の人たちって案外全然便利ではない時代には住んでいるんだけれども、結構楽しそうなところがあって、その楽しそうなところっていったいどこから来ているんだろう、実はそこに古典知というものがあるんですね。だから、くずし字が読めるというスキルとは別に くずし字を読むことによって広がる大きな世界がある。それを古典知って呼ぶんじゃないかなと思う。で、それはどんどん広がっていっていいんじゃないかと思っています。

キャンベル先生
 古典知はすごく良い言葉だと思うんですね、古典知っていうのは今先ほどの質問、女性の学生がおっしゃったように、文学っていうのは一つの囲いの中にいては古典知っていう発想が出てこないと思うんですね。今の文学とか歴史とか美学、美術というのはせいぜい120~130年くらい前に実は輸入され、編成、再編成された日本独自、だけど近代の分類、世界観なんですね。この書物、、私たちが持っている書物とかが書かれた時代、消費された時代というのは、まったく違う分類法の中で生きているわけですね。文学というのは書かれたものが書かれていて人に何かを伝える、喜怒哀楽とか情操的なものも含めて、しかしそれとは限らない、医療であったり、植物学であったり、いろんなそのあるいは建造物、建築であったり、そういうものがすべて文学なんですね。つまり、文明の学び、ということとしてそもそもあったことを考えると、今のインターネット時代の中で「ささる」と思います。ささるというか、ものすごく納得すると 感覚的に。それを一度こすって開いて、みんなが今やってるように、継続的に作業してもらおう、目を慣らしてもらおうということが必要ですけれども、たぶんすぐに感覚的に気づくことは、文学っていわゆる小説とか詩歌とか、今でいう本屋さんに行くと文学のコーナーがあって、そこにあるものじゃないものが文学、まさに古典知っていうことなんですね。飯倉さんがね、なんかよくわからないけど、不便だけど楽しそうにしているよねっていうのが、本当にそのとおりで、研究者が30年も40年もやってて、結局そういうことなのかなって困るんだけど、もっと論理的にやっぱり物事を考えないといけないんだけど、今日本を持ってもう一冊あるんだけど、こういう挿絵、ちょっと持ってくださいますか、ちょっとできたら両手で、広げて見えるようにしていただけると、この本はですね、梅吉野といって、今の大分県、豊後の国に吉野という村があって、江戸時代末期に百年以上前ですけど有名な梅の木が一本あるんですね。で、それは銘木ですね。それは有名な木だけど、まだ寒いとき、春に先駆けて咲くのが梅なんだけれども、咲くと周りの人たちが誰も呼びかけるともなく集まって、酒盛りをするわけですね。これが実はコミュニティーの小さな、歩いている範囲の豊後の国、今の大分の 本当に田舎、大分市の郊外になるんですけど、そこに集まって、幕末の一番大変な時に、こうやって集まって、木が咲いた時のためだけに集まって酒盛りをしているんですね。
 で、ちょっと寄ってもらいたいんですけど、人がそこにたくさんいるんですね、ここに。その人たちって一人ひとり名前が書いてあるんです。実名で書いてるんですね。で、別にみんなが侍とかみんなが農家とかってことではなくて、年々そこになんとなく集まるとそこにいる人たち、その人たちの名前が書いてあるんですね。その前後に、ちょっとページをめくってもらえるとわかるんだけど、今でいう俳句、俳諧が全部書かれている、(文字があるところをめくってください)、文字がずっと書かれているけれども、この文字っていうのは17文字はみんなそこに集まって実名で小さな肖像が描かれている人たちの作品なんですね。さて、この作品は文学作品でしょうか。その当時の記録、ノンフィクションとしての記録でしょうか、それとも先ほどの綺麗な絵が描かれているから、美術史のつまり絵本、綺麗な絵本として、美術史の人が対象とすべきものでしょうか、というクイズをここでできるんですけど、意味ないよね。それはただこれが江戸時代でいう絵俳書、絵が描かれていて、俳句をたくさん書かれたもので、実在の人たちが身分を越えて、性差を越えて、男女を、女性も男性も入っているんですが、コミュニティーの一つの記録なんですね。そういったものをどういう風に私たちが回収するか、追体験するかによって、何をこう汲み取って、どういう風にそれを私たちの力にできるかということにかかると思うんですね。今飯倉さんがおっしゃったように、あんまり文学、文学って何なのかっていうのを考えずに古地震の記録、日記であったり村の記録であったり、さまざまな実は歴史史料、記録史料として考えられるものはものによっては当時としては文学として読まれていたわけですね。そういうことがフレッシュというか、我々のパラダイムをちょっと塗り替える力を持つことかなと思いますね。



質問者
 先ほどの質問とちょっと被ってしまったんですけど、世の中には難しい古文はエリートに任せればいいと、一般庶民はエリートが現代語に訳したものだけを読めばいいって言っている人が多いです。それも国語学者みたいな人すらそういうことを言っている人が多い。金田一京助先生とか。そんな感じだったと思います。で、その一方でエリートも一般庶民も古文の基礎的な知識も共有できればいいっていう意見もあるとおもいますけど、私はどちらかというとそちらの方寄りの考え方なんですけど、先生方はそこらへんどのような意見、考えでしょうか。

飯倉先生
 まああの、江戸時代と明治時代の所はかなり切れているとはいえ、やっぱり現代の我々が使っている言葉の中にはやはり古文の力っていうか、やはりそれを知っていればコミュニケーション上すごく有意味といいますか、コミュニケーション上すごくやっぱりそれが意味を持ってくるわけなんですよね。それはもちろん強制的に教えて嫌がられてもしょうがないんですけれども、古文の知識、基礎的な知識があった方がよりコミュニケーションが豊かになることだけは確かだと思います。だけども、それを強制するのかどうか、これを現代語訳に全部してしまうとそこは意味を持たなくなると思いますね。簡単に。


キャンベル先生

 そもそもの次元に今の質問に引き戻してしまうと、人々はなんで本を読むのかっていうことにいきつくと思うんですね。一つは自分が経験できないこと、自分の経験から語り得ないことをしたり感じたりする、つまり思いやるとか共感をするとか、まあ同情という言い方を英語でempathyということばを使いますけれども、そういうことの場数を増やすことによって、今コミュニケーションの話もありましたけども、もちろんコミュニケーションも大事だし、そもそもそれを感知できるかどうか、人々の喜びであったり、いたみであったり、自分が今取り巻かれているその状況ということを客観的に判断できるかどうかっていうことは自分の日常的な経験からだけでは不十分なんですね。

質問者
 古文は専門家だけが知ればいいっていう人は、言葉っていうのはコミュニケーションの道具なんだから、現代人同士のコミュニケーションができればそれで十分だって言っている人が多いです。

キャンベル先生
 ただね、僕が言っているのは、共感をするとか、かつては江戸時代は「想像」という漢字を書いて思いやり、おもいやる、思いをはせるっていうんですよね。それは自分の立っている地点から半径がこう決められている、限られているので、読むこと、つまりこれが100年前、200年前の人たちが全然違う状況ではあるけれど、彼ら彼女らの証言を読むことによって自分がとうてい追体験できない、追体験ではなくて体験できないことを知るわけですね。僕は今の質問につなげるとすると、それはエリートとかある一部の人たちにだけ任せるというのはまったくナンセンスだと思うんですね。それは強制的にではなくて、折々にいろんな自分の人生の様々なステージの中で、必要性、偶然、僥倖、いろんなことで出会った他の他者のことばに触れた時に、どれぐらい共振できるか、それによって自分はやっぱり人間として豊かな生活、安全安心できる、市民生活が送れる、基本的なことだと思うんですね、で、それは一つのチャンネル、一つのソースが僕は古典知だって考えるんですね。
 そうするとそれはじゃあ、現代語訳で書かれていれば、その範囲の中でみんながそれを読んで、それに足りる、安息すべきだということは、僕はものすごく違う、危ない発想だって思うんですね。っていうのは、現代語訳をされたものはそのエリートの人たちがたかが70年80年の間に、いろんな偶然や自分たちの思惑の産物として選び、翻訳したものなんですね。決して平均的なものではないんです。司馬遼太郎の小説を僕は大好きだけど、司馬さんはほとんど活字でしか幕末の歴史を書いてないんですね。そうするとじゃあ司馬遼太郎の司馬史観っていうことがあるだけど、それを成り立たせているものはなにかというと、司馬遼太郎と同時代、前の世代の人たちがたまたま選び取った手紙や記録や小説、それを現代の人が読めるようにしている、そのメニューの中からすべての彼の小説が書かれているわけですね。まあそれ素晴らしい小説だけれど、じゃあそれでいいのか、それだけでいいのか、もっとやっぱり機会をみんなでもつ、もたせるということが重要じゃないかなと思いますね。
関連記事
スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

金田一京助云々の補足

文字起こし有難うございます。お疲れ様でした。
「難しい古文はエリートに任せればいいと、一般庶民はエリートが現代語に訳したものだけを読めばいい」との趣旨の事を金田一京助が書いたのは、昭和21年11月「余情」二(千日書房)で初出の「国語改正案」の中でです(三省堂の金田一京助全集第四巻にも収録)。
(国語簡易化について)「 そうやったら、国民が一切古典を読めなくなるではないか、と反対されるかも知れないが、それは必要な古典の数々をば、専門家の専攻に任せて、一般国民には現代語化して味わせるのである。
 又それでは語彙が貧弱になって国語が退化するのではないかと、反対されるかも知れないが、乏しい中から最善を尽せば、必ず漢字・漢語の重圧下にひしがれていた国語が始めて解放されて、生きて役立ち、自らその埋め合せをする筈である。」

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
最新記事
Twitter
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR