古典教育の意義

 古典教育についてツイッターでつぶやいていたことです。適宜改行。
 これについてはちょっと真面目に考えたい。

 「古典教育の意義はなかなか難しいんですが、かといって中等教育で古典がなくなったら近い将来古典はなくなっていくでしょう。ものの見方や考え方、美意識云々という問題はあるでしょうが、単純に歴史的な所産を受け継ぐということはあるでしょうね。僕らには後世に引き継ぐ責任があるのです。
 古典を学ばないことが未来の世代への機会の喪失、という点は古典に限らずに言えることだろうと思います。もちろん、「だから古典を」というわけではありません。「読んで良かった」という体験を、そして知的関心を抱かせていくことは古典教育に関わる人が考えないといけないことでしょう。
 少なくとも大人になって「漢文といえば返り点、古文といえば係り結び、ありをりはべりいまそかり」程度の記憶しか残らないような授業はしたくはないものです。まぁ、日々勉強勉強です。」


 これに対してMurakami,Yoshifumi‏ 氏からこのようなコメントをもらいました。

 「古典は面白いですよね。ただ、メディアリテラシーなど現代の子どもたちが学ばなければならないことはどんどん増えているので、何かを削らなければなりません。古典を算盤やピアノや空手のような一部の人だけが学べばいいものにしたら、社会は何らかの損失を被るでしょうか。」


 これを受けて次のようにつぶやきました。

 「社会の損失という点では特定の集団だけが享受し、触れることの少ない人々は文化財に対する理解も薄れ、古典に携わっている人たち(出版業、観光業、美術館等々)を支援することもなくなるでしょう。中等教育で古典に触れ、学ぶことが文化継承・保存の役割を果たしています(少なくとも理念の上では)。
 これは個人が、やりたい人だけがやればいいという問題とは分けないといけないと思います。数学や英語も、ある個人の損得だけで考えると事後的に必要なかったといえる状況は十分にありえます。個人の損得の問題を文化継承の問題へとそのままスライドさせて論じることは危険だと思います。
 個人個人が古典に触れ、学んでよかったという体験が少しでも蓄積されることが、文化継承の点からも必要となるはずです。古典教育の現場では現代語との連続性/断絶性、ものの見方、美意識等、いろいろなことを生徒は学びます。もちろん全員が面白いと思うことは難しい。
 また、古典が一部の人だけになると、将来古典関係に進むかもしれない進路選択がそもそもないことになります。学校教育が職業訓練のことだけを考えず、幅広い教科を扱うのもこうした事情があります。なくすことは簡単ですが、なくした後に何が起きるかは時間がかかるし、その時は手遅れでしょう。
 余談ながら、メディアリテラシーについては古典もメディアですから教材として用いていくことは可能ですし、比較や視点などに注目して行われています。リテラシーを育成するための教材が増えるという点は考えてもよいでしょう。もちろんそのレベルまでいくには時間も労力もかかります。」
 

 少し整理しないといけません。
 今の段階ではとりあえず次のように考えています。

 ①伝統文化を継承して未来の世代に託す
 中等教育で古典をなくせば、当然にそれに触れる人は少なくなります。一定数はいるでしょうが、相対的には減ると思います。古典に関わる人がいなくなれば、古典そのものの継承が難しくなります。たとえばどこかに旅行に行った時に「あっ、これは授業で話題になっていたやつだ」とか、芸術作品に触れた時に「これはあの作品から影響を受けているんだな」とか、そのような出会いも少なくなることを意味しますし、文化財に関わったり観光業に関わって語っている人々、その人たちの存在を軽視とまでは言わないにしても、支援する形にはならないように思います。
 そうなってしまうと、早い時期に古典はなくなってしまうでしょう。したがって、今の損得だけで古典を享受するかしないかと判断することは早計であり、今私たちが引き継いで、そして未来の世代に語り継いでいくことが未来の世代へ古典と出会う機会を確保することが私たちの責任であると思うのです。環境問題と同じように、現代の人々だけで完結するのではなく未来の世代にも責任があるため様々なエネルギー対策がなされているわけで、現代の私たちの好悪や欲望だけで論じることは難しいと思います。

 ②古典と関わる職業へのきっかけ作り
 ①とも関連しますが、中学校というよりは高校段階において古典へ興味を抱き、その道に進もうとする人が相対的に減ることが予測されます。このことは当然古典に関わる職業、その後継者不足の問題を招くわけですが、古典に限らずそれに触れる機会がないことでそもそも選択肢がその人には生まれないという点において問題があります。
 私は高1の時に古典の先生と出会い、古典に興味を抱き、いろいろと進路も変更しながらも今の職に就きました。古典が高校の時になかったとしたら自分から学ぶことはなかったでしょうし、別の職業に就いていただろうと思います。
 国語、数学、理科、社会、英語、音楽、美術、技術、家庭科、英語、情報、保健体育、これらの教科は中学校、高校で学びますが、個人の好き嫌いで決めるものではなく、様々な分野の知を獲得し、体験していくことでその個人の世界が広がり、そこからその人なりの進路が生まれてきます。仮に理系の職業に就きたいからだといって、数学、理科、英語、技術、情報などに限定され、国語や社会、音楽や美術に触れないか、さもなくばかなり削減されたとしたら、少なくとも文系への進路は絶望的なまでに可能性が低いことは想像できます。学んでいない仮定のことはあくまでも仮定なのですが、中学校や高校で音楽に触れていたから音楽関係の道に進んだ人が、もし仮に中学校や高校で音楽の授業がなかったとしたら、その人は音楽関係の道には進まないでしょう。そして一番恐ろしいのは、そもそもその人には音楽関係という選択肢自体が生まれないかもしれないことです。
 何がきっかけとなってその進路を志すか、それはわかりません。学校外の活動や習い事によるところもあるでしょう。しかし、少なくとも中等教育までは様々な世界にアクセスできるように幅広く学ぶように設定される方がよいと思います。
 リベラルアーツという点もあるかもしれませんし、早くに教科を絞って専門的なことを学ぶ方がよいという意見はあると思います。それに対して有効な反論はできませんが、古典関係に進む生徒の選択肢を用意しておく、という点を強調しておきたいと思います。


 以上の2点はなぜ古典を教えるのかという社会的な側面から述べたものです。やらなきゃ消えるかもしれないし、携わりたいということもそもそもなくなる。古典という文化はいらないと社会が決める時代がくるならまだしも、今の段階で排除するようにしてはまずいと思います。


 現実的には生徒個人にとっての古典の意味も含めての古典教育論がありますし、多くの場合この文脈で語られます。
 
 ③古典世界のものの見方・考え方を知ることで自己の世界を広げていく
 これはよくある古典教育の意義です。作品の内容だけではなく、ある断片的な記述に触れることで「なんか面白いな」「へぇ」「昔もいろいろあったんだな」という感想を抱くことはありえます。古典世界の考え方を踏まえて今の世界を批評する、ということもありえるでしょう。多くは個人的な見解ですから、こちらが面白いと思っているものを生徒は面白くないということもあるし、その逆もあるでしょう。大学の先生が生徒たちに向けて話をしていくことがありますが、その先生が面白いと思っているだけで、生徒にしてみればあまり面白くないこともありますが、事後のアンケートやお礼状などによって「私の話は生徒たちに受けたんだな」ということもあって、言葉は悪いですが勘違いをしている人もいるのではないかと思います。錯覚です。
 そもそも古典というテキストに内在した固有の価値があるか、あったとしてもそれを読者の側がすべてを引き継ぐ必要があるか、そもそも読者が意味や価値を創造するのではないか、そのような疑問も残ります。この意味では個人としては古典はなくてもよいという話にもなりますが、①②の事情もあります。
 古典を学んで良かった、お得感みたいなものを中等教育の授業の中で発見できれば、①②の問題を多少は後押しすることにもなるでしょうし、私たち中等教育の国語科の教員はそのために授業改善や授業研究をしています(現実がどうかは結構難しい)。またその教材が差し出しているテーマが当該生徒に響くものであるのか、その問題を考える意味があるのか等、まだまだ課題は残っています。

 ④教材の一つとして
 教材は生徒が何らかの力を身につけるために使用されます。何らかの目的があって編成されていきますから、現代のものだけでは物足りないことを古典テキストを一つの教材として用いることによって、その目的が達成される可能性はあります。これは古典テキストだけにいえるわけではなく、海外のテキストでもいえます。もちろんライトノベルでも映画でもアニメでもドラマでも。
 これは古典観とも関わりますが、古典は現代とまっすぐに結びつくわけではありませんし、全く理解ができないということもあります。私はこれは古典テキストを一つの他者として捉え、そういう他者と対話していくことができる場を生み出すことができるのではないかとも思っています。
 これについては、それに行き着くまでの古典文法や古典常識、単語などの学習が必要となりますし、そこまでしてやるべきことか、と言われると怪しいところもあるでしょう。また、現代語訳でいいじゃないかという意見もあるでしょう。
 原文と現代語とを見比べながら、言葉の仕組みの違いを知ることや今では使われない用法(待遇表現)を知ることはあるでしょう。言語運用というよりは言語を内省していくことはできるでしょう。このことは言葉に対する認識を更新していくという効果もあるでしょう。
 現代語訳は、というか翻訳というのは文化の翻訳でもあります。原文そのままと現代語訳は同じものではありませんし、ある面で別のテキストだと思った方がいいでしょう。トランプ氏の使用する「they」を「あいつら」と訳すのか「彼ら彼女ら」と訳すのか、ボルト氏の使用する「I」を「おれ」と訳すのか「わたし」と訳すのか、それだけでも全く意味は異なりますし、受け手の印象も変わります。漢文も書き下し文はいろいろとありますし、どこに返り点を打つのか、その時点で一つの解釈が反映されています。


 他にもいろいろなことはあります。
 個人的には数年間真面目に学べば、やや古い時代のものもある程度読めるようにもなりますし、古典文法や古い言葉の仕組みを知らなければ近代小説などは翻訳を経なければ読めないわけで(しかもまだ少ない状況)、勉強していたら直接読むことも可能であるので、読めるテキストが増えるのでその点はもう少し考慮されてもいいように思います。もちろん、「舞姫」などは現代語訳化されていたり、「山月記」などもそのままでは注があったとしても読めない生徒がいる現実はあります。この問題はどのような生徒層なのかによって意見も様々だろうと思うので一概には言えません。
 いずれにせよ、「古典っていいなぁ」という感想を抱き、興味関心を抱く場を作ることがなければいけないでしょう。まぁ、なかなか難しい問題です。「大学入試にあるから」という点以外にも、積極的な意味を個人個人の教員が考えて実践していくしか今の段階ではできないでしょうね。

 →古典教育の意義(続)
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センター試験 国語 200点

をとる方法をブログで解説してください。
古典教育の意義にも関連していくような気がします。

漫画家とか明らかに東西の古典の文学作品下敷きにしてますよね。源氏物語もはたからみたらあれは産業です。

No title

 自分で「古典」を読むのは楽しかったけど古典の授業は苦痛でした。学校の授業では文法に偏りすぎ、古い時代に偏りすぎ、という印象です。
 結局「受験勉強のための授業」という域を出てないのかなあ、という気がしています。古典に対する苦手意識だけを強く残す授業が「文化保護」だとは思いません。中高6年間でそんな感じだったので、一部の教師の傾向、というわけではないと思います。
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