正論を振りかざす人
昨日書店に行って本を買い込み、平積みされていた本の中に教育関係のものがあったから久しぶりに買ってみました。11刷だからそこそこ増刷されているってことで、売れてるんでしょうかね。
基本的に教育系の本ばかり買って読んでいる教員に限って、小説やらさまざまな世界のアートに触れようとせずに思考が硬直化してしまっているような気がします。まぁ、買って読んでいるだけましなのかなとも思うけど。
で、林純次『残念な教員』(光文社新書)という本を先ほど読み終えました。
ここでいわれている「残念な教員」というのは、ぼくたちが漠然と抱いているイメージとそう大差はないかなと思います。
読み終わってというか、読みながらもそうだったのですが、ものすごく息苦しさを感じました。
たぶん真面目な方だろうし、勉強も熱心にされていて、生徒への情も深く、教員としての社会的な使命や理想をいうものを明確にもあっている方なんでしょう。
だからこそ、じぶんの理想に合わない教員を「残念な教員」と言ってのけているんだろうなと感じました。
でも、そんな「残念な教員」はこの本を読まないだろうなとも思いました。
そして、このタイトルはこの筆者にこそふさわしいなとも思いました。
内田樹さんの処女作にあたるんじゃないかとおもいますが、『ためらいの倫理学』という本が10年近く前に刊行されました。
その中で、岡真理さんなどのポストモダニストたちが語る「正義」に対する内田さんの息苦しさについて書かれたものがあります。それと似たような印象をこの本に関しては抱いてしまいました。
正論なんだけど、「審判」されているといいますか、まったく一方的なもの言いです。
印象だけで批判をしていたらなんなので、具体的にひっかかったところでいうと、たとえば田井康雄さんの『自己形成原論』の中の一節、「自己は他者の構成要素であり、他者は自己の構成要素である」(167ページ)を生徒たちに体験させるという話があるんですが、まあ一種の自己論、他者論ですが、この記述を一つの理論的な根拠とするのであれば、自己の都合のよい他者だけを自己の構成要素にすることはやめた方がよい。同様に、他者に自己の都合のよいところだけを構成要素として強要するのはやめた方がよい。
他にも「発問」と「質問」との違いがわからなければ教員免許を返納した方がよいらしいです(124ページ)。
寡聞にして知らなかったのですが、これって発問のグレードの違いなだけで、別に知らなくても普段やっていることなんですがね(僕が習ったところでいえば、「確認発問」と「思考発問」というのがあった)。
知っているものがすべてで、知らないもの、知らないままにすませるもの、知ろうとしないものは、断罪されるものらしい。
全般的にじぶんの成功体験とじぶんからみて気に入らない教員の失敗体験とが書かれてあって、そんな「残念な教員」と対話をしていこうという気がないわけで、どうなんでしょうかね。いや、努力はした、ということになるのかもしれませんが、それはどうなんだろう。
そもそもの話にもなりますが、生徒たちの多様性や未来のことをいうのであれば、教員の多様性や将来のことも考えるべきではないかともおもうのです。
みんなが金八先生みたいな教員であったら困るし、みんながグレートティーチャー鬼塚みたいな教員でも困ります。思考力、常識力、既婚・結婚歴、専門的な知、コミュニケーション能力、その他さまざまな教員の個性があってしかるべきだと思います。「残念な教員」であったとしても、そんな教員をいいなぁとおもっている生徒もいるわけで、それはそれでいいのではないかと思います。
前に教員としての資格や条件について書いたことがありますが、そんなのは教科が好き、子供が好き、授業が好き、このいずれかがあればいいと思います。教師をべき論で論じている本ほど嫌なものはないですね。
この方、僕よりも教員歴も長いし年上の方だし、同じ教科でもありますが、彼が読むであろう入試問題の評論文には僕が危惧しているようなことや「対話」や「他者論」についてのことは書かれてあるとはおもうのですが、不思議と学ばれてはいないようです。
最少でも年間300冊や最新の論文や雑誌記事、新聞も毎日4~8紙も読んでいる(36ページ)からといって、というか、年間そんだけ読んでいるくせにその程度の思考しかできないのであれば、あわれとしか言いようがない。皮肉なことに読書の効果がないということの証左なのかもしれません。
言いたいことはわかるけれども、こんなに頑張っているのになんでわかってくれないの、という暑苦しい教員の典型です。
なんだか悪意すら感じる本でした。途中、投げ捨てようかなともおもいましたが、最後までは読もうとおもって読んだけれども、やっぱり残念な感じです。まぁ、こんな「残念な教員」でも付いていく生徒は多いのでしょうから、頑張ってほしいものです。
てな風に、上から目線で教員を批評しているスタイルなんです。
いかに教員としてのアイデンティティの硬直化があるかがわかる事例だと感じました。
こんな本を出した光文社の担当者さんは、品がないとも思いました。光文社ってこんな会社だったかな・・。担当者さんがまともだったら、もうちょっと良い本になっていただろうに、残念な感じです。
基本的に教育系の本ばかり買って読んでいる教員に限って、小説やらさまざまな世界のアートに触れようとせずに思考が硬直化してしまっているような気がします。まぁ、買って読んでいるだけましなのかなとも思うけど。
で、林純次『残念な教員』(光文社新書)という本を先ほど読み終えました。
ここでいわれている「残念な教員」というのは、ぼくたちが漠然と抱いているイメージとそう大差はないかなと思います。
読み終わってというか、読みながらもそうだったのですが、ものすごく息苦しさを感じました。
たぶん真面目な方だろうし、勉強も熱心にされていて、生徒への情も深く、教員としての社会的な使命や理想をいうものを明確にもあっている方なんでしょう。
だからこそ、じぶんの理想に合わない教員を「残念な教員」と言ってのけているんだろうなと感じました。
でも、そんな「残念な教員」はこの本を読まないだろうなとも思いました。
そして、このタイトルはこの筆者にこそふさわしいなとも思いました。
内田樹さんの処女作にあたるんじゃないかとおもいますが、『ためらいの倫理学』という本が10年近く前に刊行されました。
その中で、岡真理さんなどのポストモダニストたちが語る「正義」に対する内田さんの息苦しさについて書かれたものがあります。それと似たような印象をこの本に関しては抱いてしまいました。
正論なんだけど、「審判」されているといいますか、まったく一方的なもの言いです。
印象だけで批判をしていたらなんなので、具体的にひっかかったところでいうと、たとえば田井康雄さんの『自己形成原論』の中の一節、「自己は他者の構成要素であり、他者は自己の構成要素である」(167ページ)を生徒たちに体験させるという話があるんですが、まあ一種の自己論、他者論ですが、この記述を一つの理論的な根拠とするのであれば、自己の都合のよい他者だけを自己の構成要素にすることはやめた方がよい。同様に、他者に自己の都合のよいところだけを構成要素として強要するのはやめた方がよい。
他にも「発問」と「質問」との違いがわからなければ教員免許を返納した方がよいらしいです(124ページ)。
寡聞にして知らなかったのですが、これって発問のグレードの違いなだけで、別に知らなくても普段やっていることなんですがね(僕が習ったところでいえば、「確認発問」と「思考発問」というのがあった)。
知っているものがすべてで、知らないもの、知らないままにすませるもの、知ろうとしないものは、断罪されるものらしい。
全般的にじぶんの成功体験とじぶんからみて気に入らない教員の失敗体験とが書かれてあって、そんな「残念な教員」と対話をしていこうという気がないわけで、どうなんでしょうかね。いや、努力はした、ということになるのかもしれませんが、それはどうなんだろう。
そもそもの話にもなりますが、生徒たちの多様性や未来のことをいうのであれば、教員の多様性や将来のことも考えるべきではないかともおもうのです。
みんなが金八先生みたいな教員であったら困るし、みんながグレートティーチャー鬼塚みたいな教員でも困ります。思考力、常識力、既婚・結婚歴、専門的な知、コミュニケーション能力、その他さまざまな教員の個性があってしかるべきだと思います。「残念な教員」であったとしても、そんな教員をいいなぁとおもっている生徒もいるわけで、それはそれでいいのではないかと思います。
前に教員としての資格や条件について書いたことがありますが、そんなのは教科が好き、子供が好き、授業が好き、このいずれかがあればいいと思います。教師をべき論で論じている本ほど嫌なものはないですね。
この方、僕よりも教員歴も長いし年上の方だし、同じ教科でもありますが、彼が読むであろう入試問題の評論文には僕が危惧しているようなことや「対話」や「他者論」についてのことは書かれてあるとはおもうのですが、不思議と学ばれてはいないようです。
最少でも年間300冊や最新の論文や雑誌記事、新聞も毎日4~8紙も読んでいる(36ページ)からといって、というか、年間そんだけ読んでいるくせにその程度の思考しかできないのであれば、あわれとしか言いようがない。皮肉なことに読書の効果がないということの証左なのかもしれません。
言いたいことはわかるけれども、こんなに頑張っているのになんでわかってくれないの、という暑苦しい教員の典型です。
なんだか悪意すら感じる本でした。途中、投げ捨てようかなともおもいましたが、最後までは読もうとおもって読んだけれども、やっぱり残念な感じです。まぁ、こんな「残念な教員」でも付いていく生徒は多いのでしょうから、頑張ってほしいものです。
てな風に、上から目線で教員を批評しているスタイルなんです。
いかに教員としてのアイデンティティの硬直化があるかがわかる事例だと感じました。
こんな本を出した光文社の担当者さんは、品がないとも思いました。光文社ってこんな会社だったかな・・。担当者さんがまともだったら、もうちょっと良い本になっていただろうに、残念な感じです。
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