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はじめに

 ひょんなことからブログを立ち上げました。
 現役の中学校・高校の国語の教員です。ツイッターもはじめました。「国語科教員」という名前なので、いつでもどうぞ。
 まだ不慣れなのですが、やりたいとおもっていることは以下の3つ。


 ①国語科教育にまつわる話
 →高等学校国語科の授業のアクティブラーニングの実践まとめ(随時更新)

 ②国語(現代文・古文・漢文)の参考書、問題集の分析や評価
 →問題集・参考書のまとめ


 ③大学入試問題や私学適性検査の国語の解答作成
 →今のところ無理っす

 ①についてですが、読者層は同業者やこれから国語の教員になろうとしている大学生を想定しています。意外に語られることがあるようで、実はあまりないようなことなどを話題としてとりあげてみたいとおもいます。

 ②についてですが、インターネットの世界ではさまざまな参考書や問題集への評価がありますが、なんとなく腑に落ちないところもあるので、私的整理の意味合いを込めてやってみたいとおもいます。

 ③についてですが、需要があるわりに解答が作成されていない問題がわりと多く散見されます。特に私学適性検査(毎年8月下旬に大都市で行われる私学の教員になりたい人が受ける試験)の問題文は何度かみてきましたが、なんともいえないものです。これはまた話題にしてみたいとおもいます。


 時には脱線をすることもあるでしょうし、時期的に更新が難しいこともありますが、よろしくお願いいたします。

 コメントなど気軽に書いてみてください。
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平成30年度試行調査(11月10日実施)大問4『源氏物語』「手習」の訳

 あさましうもてそこなひたる身を思ひもてゆけば、宮を、すこしもあはれと思ひ聞こえけむ心ぞいとけしからぬ、ただ、この人の御ゆかりにさすらへぬるぞと思へば、小島の色を例に契り給ひしを、などてをかしと思ひ聞こえけむとこよなく飽きにたる心地す。はじめより、薄きながらものどやかにものし給ひし人は、この折かの折など、思ひ出づるぞこよなかりける。かくてこそありけれと聞きつけられ奉らむ恥づかしさは、人よりまさりぬべし。さすがに、この世には、ありし御さまを、よそながらだに、いつかは見むずるとうち思ふ、なほわろの心や、かくだに思はじ、など心ひとつをかへさふ。
 からうして鶏の鳴くを聞きて、いとうれし。母の御声を聞きたらむは、ましていかならむと思ひ明かして、心地もいとあし。供にてわたるべき人もとみに来ねば、なほ臥し給へるに、いびきの人はいととく起きて、粥などむつかしきことどもをもてはやして、「御前に、とく聞こし召せ」など寄り来て言へど、まかなひもいと心づきなく、うたて見知らぬ心地して、「なやましくなむ」と、ことなしび給ふを、強ひて言ふもいとこちなし。下 衆下衆しき法師ばらなどあまた来て、「僧都、今日下りさせ給ふべし」、「などにはかには」と問ふなれば、「一品の宮の御物の怪になやませ給ひける、山の座主御修法仕まつらせ給へど、なほ僧都参り給はでは験なしとて、昨日二たびなむ召し侍りし。右大臣殿の四位少将、昨夜夜更けてなむ登りおはしまして、 后の宮の御文など侍りければ下りさせ給ふなり」など、いとはなやかに言ひなす。恥づかしうとも、あひて、尼になし給ひてよと言はむ、さかしら人すくなくてよき折にこそと思へば、起きて、「心地のいとあしうのみ侍るを、僧都の下りさせ給へらむに、忌むこと受け侍らむとなむ思ひ侍るを、さやうに聞こえ給へ」と語らひ給へば、ほけほけしううなづく
 例の方におはして、髪は尼君のみ梳り給ふを、別人に手触れさせむもうたておぼゆるに、手づから、はた、えせぬことなれば、ただすこしとき下して、親にいま一たびかうながらのさまを見えずなりなむこそ、人やりならずいと悲しけれ。いたうわづらひしけにや、髪もすこし落ち細りにたる心地すれど、何ばかりもおとろへず、いと多くて、六尺ばかりなる末などぞうつくしかりける。筋なども、いとこまかにうつくしげなり。「かかれとてしも」と独りごちゐ給へり。


 「・・・(せっかくこんな生活から抜けられると思っていたのに)あきれるほどに自分で壊してしまった身の上のことを思い続けていくと、宮(匂宮)を、ちょこっと良いお方と思い申しあげたというその自分の考えが本当におかしかった、すべてこの方とのご縁でこうしてふわふわっとしている身の上となっちゃったのだと思うと、(宮があの)小島の変らない色を出して誓いなさったことを、どうしてマンモスうれぴーとお思い申したのだろう」とこの上なくチョーマジムカつく気持ちがする。最初から、草食系でありながらまったりとしていらっしゃった大将の君(薫)は、この折あの折などと思い出すにつけて、この上ないものであったのだ。こうして私はまだ生きているのだと、大将の君(薫)のお耳に入りでもしたら、きっとその時の恥ずかしさは誰か他の人に聞かれる以上の恥ずかしさでログアウトしちゃう。さすがに、この世には昔ながらのお姿を、よそながらにでも、いつか見ることがあるかも・・・、やはりそういうはしたない心だこと、こんなふうにすら思うまい、なんてと一人で思い直している。
 ようやくやっとのことで鶏が鳴くの聞いて、ほっとする。母君のお声を聞くのであればその時はホントにどんだけ嬉しいだろうと思って夜を過ごすが、気分は悪いぜ。自分の部屋に付き添ってくれるはずの女童がすぐには来ないので、そのまま臥していらっしゃると、いびきの酷い尼君たちは早くに起きて、粥などあまり惹かれない食い物とかをご馳走のようにして、「あなたも、すぐに召しあがれ」などと寄ってきて言うけれど、老尼の給仕も気にくわないし、経験したことのないくらいに嫌な心地がして、「ちょい気持ち悪いから」と素っ気なく断りなさるのを、無理に言うのもホントにノットエモい。ひどく卑しい法師たちなどが大勢きて、「僧都は今日山をお下りになるはずです」、「どうして急に?」と誰尋ねているようなので、「一品の宮が御物の怪に煩いなさって、山の座主が御修法を奉仕していらっしゃいますが、やはり僧都が参上なさいませんでは効き目がないといって、昨日ふたたびお召しがございました。右大臣殿の四位少将が昨晩夜更けになって登っていらっしゃって、后の宮のお手紙などがございましたので今日下山なさるということなのだそうです」などと、本当ににぎやかに説明している。(女君は)恥ずかしくても、僧都に会って、尼にしてくだってよと言っちゃおう、うるさい人も少なくてよい機会だからねと思うので、起きて、「気分があんまりよくないものですから、僧都が下山なさいましたらその時に戒を受けようと思いますので、そのように申しあげてください」とお話されると、老尼はボケた顔をしてうなずく。
 (女君は)いつもの自分の部屋にお入りになって、御髪は尼君だけがとかしてくださっているので、誰にも手に触れさせるのは嫌だと思われるが、自身ではまたできないことなので、ちょっとときおろして、母君にもう一度このままの状態の姿をお目にかけられないことになるのが、自分で願ったこととはいえホントにやりきれない。ひどく煩ったせいか、髪も少し抜けて細くなってしまった感じがするけれど、それほど衰えたわけでもなく、みごとなもので六尺ほどもある髪の裾などが本当に美しいのであった。毛筋なども、ホントに隙間もなく、本当に綺麗な感じである。「かかれとてしも(母君はこうして私が剃髪するだなんて思っても私の髪を触っていらっしゃらなかっただろうに)」と、独り言を言って座っていらっしゃる。



 漢文の『郁離子』の方は、以下に訳がありました。

 【劉伯温の寓話】サルたちの覚醒

紹介 諏訪園純『〈いま・ここ〉に効く源氏物語のつぶやき〉』(武蔵野書院、2018)

 最近はTwitter中心で、記事の更新がなく本の紹介を全然していませんでした。
 先日読んだ本の紹介をしておきます。


 諏訪園純『〈いま・ここ〉に効く源氏物語のつぶやき〉』(武蔵野書院、2018)
 

 なお、すでに著者には『文学テクストをめぐる心の表象』(武蔵野書院、2017)があります。

 

 私は拙著にこの本を文献案内の一つに選びました。内容の興味深さが主な理由ですが、現役の教員が書いている本の紹介という意味合いもありました。教室でやりとりをしている人だからこそ文学について異なる視点も見いだされることもあるでしょう。

 さて、紹介した本書は『源氏物語』の一文ないし複数の文を著者が選び取り、それを解説しているのが主な流れです。一つひとつにどのような場面での誰の言葉なのかの説明があります。これだけでも『源氏』がどのような物語なのかを垣間見ることができるという点でガイドブックとしての役割を果たします。
 タイトルだけみると軽い現代語訳と教訓だけの自己啓発本みたいに思えるかもしれませんが、そんな質のものではありません。筆者の鋭い分析と深い学識(古典文学だけではない)に裏打ちされた叙述に舌を巻く思いです。
 目次を挙げておきます。


 はじめに
   ▼ノート①源氏物語のジャンル
   ▼ノート②国語=現国+古典、という概念
   凡例
   本書に関する主な登場人物

第1章 生を照らす光
 1 毎日の暮らし
  ◆心の置き場
  ◆しなやかに生きる
  ◆公と私
  ◆学ぶということ
   ▼ノート③源氏物語を書いたのは誰か
   ▼ノート④短いフレーズをいくつか
 2 生の果てに待つもの
  ◆長生きは
  ◆生と死の位相

第2章 運命に生かされる
 1 運命に漂う
  ◆良くも悪くも運命は
 2 運命という諦念
  ◆諦めたその先に
  ◆主体を越えて

第3章 世間を泳ぎきる
 1 人間関係の不協和音
  ◆上手くいかない
  ◆人の心は
   ▼ノート⑤登場人物の気持ちは読めるのか
  ◆仲間の条件
 2 噂との付き合い方
  ◆噂とは何なのか
  ◆噂への処方箋

第4章 モノの言い方
 1 会話の手ほどき
  ◆何事もほどよく
   ▼ノート⑥紫式部像の生成
  ◆配慮と行儀
 2 語ることの効用
  ◆モヤモヤをカタチに

第5章 人間の諸相
 1 こんな人あんな人
  ◆環境は人をつくるか
  ◆人間のあれこれ
  ◆結局のところ
 2 年齢は重なる一方
  ◆年齢を重ねて分かること
  ◆高齢を生きる
  ◆他方、若者自身は
 3 立場とともにある人
  ◆高い身分と低い身分
  ◆僧と法師と
  ◆賢人と師匠
  ◆博士たち
 4 子は人を親にする
  ◆親とは
  ◆子育てのヒント

第6章 男の理想と女の現実
   ▼ノート⑦語り手とは何か
 1 男の語る「女」論
  ◆理想篇
  ◆現実篇
  ◆男親の立場から
 2 女の語る「男」論
  ◆理想篇
  ◆現実篇
 3 女の語る「女」論
  ◆女ばかり

第7章 自然が人を生かす
 1 自然が自己を立ち上げる
  ◆雪の風景
  ◆夜な夜なの寝覚め
 2 風景とシンクロする心
  ◆悪天候が解き放つ心
  ◆見る人と風景
  ◆里という粗野
   ▼ノート⑧美意識と生活世界
  あとがき


 この目次からいろいろと想起されるものはあると思いますが、人に関わる問題に触れる言葉を選んでその解説をしています。
 私が特に興味深いと思ったのは、私たち教員が教材を発掘したり教材を分析する時の視点が解説の中に述べられていることです。物語で語られるどのような問題が私たちの生きているこの社会や私たちと結びついており、そのことがどれだけ重要なものなのか、そのことを教えてくれます。

 私が教材を発掘するにしても分析するにしても、そのテキストが問題にしていることとか、そのテキストがどのような社会状況にあってテキストが編まれたのか、これらをまず確認します。そして、その問題が生徒たちの関心や興味を抱かせるに足るものかどうかを考えます。たいていはテキストの内容をそのまま読んだとしても関心や興味を抱く生徒は少ないことが多い。
 ただ、授業者として授業の工夫をすることによって、その興味や関心を刺激することができることがあります。生徒の身近な問題と実はつながっているのだという授業者の解説やそれに近い現代の文章を併せ読んで、その気づきを共有することによって「あ、そういうことだったのか」と発見することもあるでしょう。

 古典テキストの場合は生徒との距離とかけ離れていて、でも「昔からこうだったんだ」と思うところを取りあげて安易に結びつけていくことがあります。ただし、このことが本当にそのテキストを生み出した人たちの問題意識を共有していることになっているのかという問題があります。人に関わる問題、たとえば自己のあり方や振る舞い、公としての自己と私としての自己、他者に期待される自己、これらの問題が語られていて、それを現代の文脈で判断することはためらった方がいいと思っています。
 しかし、状況は異なるとはいえ、自己とは何かのような問題は千年も前の人も考えてきた問題であるという点で現代とも接点はあります(そしてある種の問いとは解決されえないものである、ということに気づけるのも古典教育の副産物だろうと思います)。その問題を簡単に消化するのではなくて、現代とは異なる古典世界の制度や対人関係のあり方を丁寧に抑えていき、その状況の中である問題について考え、どのような発話をしているのか、これを読み取ることが大切なことだと思います。
 状況は異なるけれどというか、状況は異なるからこそ、現代に生きる私たちにとって「あ、そういう考えもあるのか」と発見することもあるでしょう。状況が異なる、時間的に距離があるからこそ、現代とは身近ではないからこそ、それについての意見を言いやすいってこともあると思います。
 身近なものは身近すぎて、自分たちにストレートに跳ね返ってくる問題があってなかなか取り扱いが難しいものです。自分たちとは距離がある物語だからこそ抵抗なく言えることもあって、しかしそれを言ったり読み進めていく中で実は自分たちの問題のことでもあるのだと発見することができればいいなと常々考えています。


 少し私の関心に引き付けて書いてしまいました。引用や問題意識も私の”好み”なので、本書には非常に共感できました。
 本書の引用の特徴として、古典文学研究の引用はもとより、哲学や社会学、心理学のものも引かれていますが、比較的新しい書籍が目立ちました。たとえば、2017年のものも結構あります。昨年話題になった國分功一郎『中動態の世界』とも関わらせていたところもあります。
 私自身いろいろな発見があって、授業分析や方法のヒントをもらいました。とても良い本なので是非。
 お値段なんと1200円。何よりもこれに一番びっくりしました。


【附記】
 誤字・脱字かなと思われるもの。ちょう些細なこと。
 P112  「これくらの地位」→「これくらいの地位」
 P149  「雲居の雁」→「雲居雁」(ここだけ「の」が入ってた)
 P179、211  「子を思う道は」→「子を思ふ道は」(引歌なので「思ふ」の方がいいかなと)
 

「国語科教員氏の「人間の本質と語ること」の「認識」の「甘さ」」への返答

 前回の記事についての反応です。

 国語科教員氏の「人間の本質と語ること」の「認識」の「甘さ」

【言い訳】
 前回の記事はもともと彼の疑問がきっかけとなって書いたものでした。ただ、私が彼にTwitter上で特に知らせなかったのは、自分の違和感の「わからない」の表出が目立ち、「どうしてこんなことを言っているんだろうか」というのを長い時間をかけて考えていなかったことと、引用RTを私がしなかったから彼はそのことを根に持っていてネチネチと言っているなと思ったことと、きっかけは彼だとしてもこんな疑問を抱く人もいるのかなと思って別に彼への返答のつもりではなかったことが理由です。また、今週はもう議論はいいと思ったことが大きな理由でもありますが、一方で私の言葉が通じないと思って、通じない人にどういう言葉で言えばいいかを考えていたというのもあります。

 議論に疲れていたこととどういう言葉で説明するか考えていたというのは「言い訳」に映ったようです。でも言葉が通じない人にどういう言葉を言えばいいのか、それについて考えていることを「言い訳祭り」だと言われたので(本当は引用したブログには数日~数週間くらい時間をかけて返答をしようと思っていましたが)、この言葉に私はカチンときたのでTwitterでやりとりが始まりました。私にとっては言葉が通じない人とは自分とは異なる思想をもっており、そのような異なる思想の人には簡単な言葉やありきたりな言葉や抽象的な言葉では伝わらないと思っています。そのためにはこちらもあれこれ考えないといけないし、このことの苦しさはあるはずですが、こんなことを「言い訳祭り」だなんて言われたから私はカチンときました。

 このやりとりではいろいろなことがわかりましたが、このやりとり自体は私は彼の言い方や態度が気にくわなかったこともあって、具体的な中身までいけませんでしたし、もともと時間をかけて答えないといけないと思っていたのでそこまで深まるとも思っていませんでした。とても人様に見せられるようなものではない。これは私が自分を抑えられなかったことが原因です。

【本題】

 問題の発端は「語ることが人の本質」ということですが、いろいろとあった末に「語ることが人の本質(の一つ)」ということについては異論がないということになりました。
 しかし、「語ること」は本質の一つに過ぎないのに①なぜこれだけを重視しているのか、そして②この本質から他の実践を批判できるのか、この理由がわからないといいます。他の本質に触れる実践もあるだろうと。以下、該当部分の引用です。



 ”しかし、だとすれば、それがある「ひとつ」の「本質」であることを踏まえて、(すなわち、ある「ひとつ」の「本質」でしかないにも関わらず、)その「本質」に触れない実践には「違和感」があると言ってしまうのは、やはりぼくには「違和感」がある。”

 ”その「本質」をもって、ほかの「本質」に触れている(かもしれない)実践を批判することに、意味はない。「あくてぃぶらーにんぐ」の実践が、「語ることは人間の本質」以外の「本質」に触れている可能性は、常にあるからだ。もしも意味があるとすれば、その「本質」に触れていない実践の具体を検討することによって、その実践に何が欠落しており、そしてまた、なぜその欠落がクリティカルなものであるのか、ということを説明する以外にない。具体的な分析なく、「本質(のひとつ)」のようなもので、何かを批判することに建設的な意義はない。”

 ”しかし、「国語教育について議論するときに「語ることは人間の本質である」というテーゼを前提に据えるって非常に重要なことだ」という考えについては何も述べていない。
そもそも「国語教育を議論する上での「ひとつの」指針になり得る」ことから、「国語教育について議論するときに「語ることは人間の本質である」というテーゼを前提に据えるって非常に重要なことだ」という主張を導き出すことは当然のことではない。”

 ”同様に、ある考えが「「ひとつの」指針になり得る」ことは、その指針が「非常に重要なこと」であることを自動的に導き出さない。これは単に「「ひとつの」指針になり得る」その考えを、〈私〉は「非常に重要なことだ」と思う、という表明でしかない。少なくとも「国語教育について議論する」といった大きな主語で即座に一般化できるようなものではない。それこそ「ひとつの」考えに過ぎない。
ぼくが疑問に思っていたことのひとつは、「ひとつの」考えでしかない前提を踏まえなかったときに、その授業がその考えに則っていないからという理由で批判されうるか、ということである。この疑問は維持されている。
説明すべきは、「語ることが人間の本質(のひとつ)」であるということではなく、なぜその「本質(のひとつ)」が国語教育を議論する上で「非常に重要なこと」なのかであるはずだ。”



 まずは①から。私が「語る」ことを本質でありそれが重要だと思っているのは、人は語って生きているという単純な事実からです。語ることでやりとりをするのはもちろんのこと、自己の考えをまとめたり、それを他者に向けることでそれを受け止めてもらったら良かったと思ったりします。また、これは必ずしも良いことばかりではなく、「騙る」ことだってある。でも、これも「語る」ことの範囲に含まれます。
 また、語ることは他者を前提とした行為です。「語る」といっても、単に表現をすることにとどまらず、他者を含んでいく行為です。自分の中にも「他者」がいると思えば、独り言でも「私という他者」に向けたことになります。「語る」ことは他者の問題にもつながるし、他者とともに生きているこの社会や世界についての問題にもつながります。「語る」ことの範囲が広いと思います。範囲を狭めて使う人もいると思いますが、「語る」「他者」「社会」と広げていくことができると考えています(拡張した方が授業ではよい、と思っています)。
 また、あることを語ろうと思って、語ってみたらそれに反するような語りをすることもあるでしょう。ここには「自己」の問題が含まれます(たとえば安藤宏『「私」をつくる』)。語ることで「私」が作られていく、作っていこうとすることもあるでしょう。
 「語る」ことの働きに、語ることによって世界を作るという考え方も取り入れることもできます。これは歴史叙述や神話語りの問題として考えることができます。

 以上は、「語る」ことは様々な問題とつながっているということの一例です。私は「語る」ことが重要なのはこの働きは私たちが生きていく上で欠かせないことだと考えているからです。

 「人の本質」には「語る」こと以外にも考えられますが、特に国語教育という文脈においてこの「語る」ことを重要視していくことが有効であると思います。テキストを読解する場合に、そのテキストでの「語る」行為がどういうものであるのかを知り、参照することで自分たちの「語る」行為とその問題の広がりを認識していくことができるからです。これは前回のブログに書いたこととも重なります。

 むしろ、逆に聞きたいのは、では国語教育において「語る」こと以外の本質があると(設定すると)すればそれは何があるのか?ということです。そして、「ひとつの考え」であり「ひとつの指針」であるとしても、他の考えや指針があってそれらを並べた時に、「語る」ことがそれらよりも重要なのかというのが疑問です。「ひとつの考えに過ぎない」と言えることが私にとっては違和感です。


 私が使用する「本質」という言葉についての疑問です。

 ”古田氏は「本質」という言葉を使うべきだ、と考えているのか。それとも使うべきではない、と考えているのか。まったく明確ではない。”

 これは、基本的には使うべきではない。なぜなら、ある何かを「本質」だというのはそれを「本質」だと考える共同体には有効ではあるが、この共同体の外にいると「本質」だとは限らないからです。しかし、私は「本質」という言葉をそれでも使うのは、国語教育という共同体においては「(語ることは)本質」という言葉を使った方が授業作りの上でもいいと思うからです。


 次に②この本質から他の実践を批判できるのかについてです。
 先ほど引用したものを再度引用します。

  ”その「本質」をもって、ほかの「本質」に触れている(かもしれない)実践を批判することに、意味はない。「あくてぃぶらーにんぐ」の実践が、「語ることは人間の本質」以外の「本質」に触れている可能性は、常にあるからだ。もしも意味があるとすれば、その「本質」に触れていない実践の具体を検討することによって、その実践に何が欠落しており、そしてまた、なぜその欠落がクリティカルなものであるのか、ということを説明する以外にない。具体的な分析なく、「本質(のひとつ)」のようなもので、何かを批判することに建設的な意義はない。”

 
 私にはよくつかめていませんが、「ほかの「本質」に触れている(かもしれない)実践」、「「あくてぃぶらーにんぐ」の実践が、「語ることは人間の本質」以外の「本質」に触れている可能性は、常にあるからだ。」といった場合の「本質」はどのようなものがあるんでしょうか。

 そして、そういうものがあって、授業の狙いやどのような資質・能力を意識しているか、育てようとしているかによって、「語る」以外の「本質」に触れるとして、そのような授業が大切なことは言うまでもありません。私はすべての授業で「語る」ことを軸とした授業になるとは思いません。
 私がここで私の立場から意見をしていくと述べたのは、「語る」ことに触れていくことができるのにしない実践については、もっと焦点化させた方がいいと考えているからです(ただし、「語る」ことに触れていない実践はあるのかというと私は疑問に思います。先にも述べたように「語る」ことの範囲が広いからです)。
 しかし、ここは「意見」や「批判」よりは「よりよい授業にすることができるから「語る」ことに注目する」と言った方が適切だと思いました。

 ②のことについては、「語る」ことが私たちの日常行為であって、「語る」ことの問題が取り出せるテキストを読んでいくことが多いのだからそれらを長期的に触れていくことによって、「語る」ことについての意識をもつために、いろんな授業があって「語る」ことが軸にできるのであればそれをしていきましょう、ということです。



 次の問題。

 ”「「人は何かを語らざるをえない存在」、「人の本質は語ること」と設定しておけば」、自動的に「語り手」が「人として排除されない形で読者と対話する場」は生まれるのか。”


 これは、書き手を不在にするのではない、ということです。「語る」ということが他者への呼びかけを含んだ行為である以上、呼びかけられた読者はそれに応答していく方がいいということです。そして、それを長期的に授業を通じて意識していくことで、常に「書き手がいるんだ」と思うことでその書き手が排除されないようにすることです。
 「語る」ことの意識がなくなると、誰がなぜ語っているのかを意識しなくなります。内容だけを理解していきます。だから「語る」ことを常に授業で意識するようにすると、生徒たちも「誰が語っているのか」の「誰が」を意識しますし、「誰が」と意識することが書き手の排除や不在を防ぐことにつながると考えています。「対話」については排除や不在の時点でその機会はなくなるのですから、書き手を意識していくことで対話の可能性が高まります。ただ、書き手を意識するだけでは対話は生まれず、書き手が問題にしていることまで読み取って読者が応答することができて、対話が生まれると思います。


 なお、

 ”ここではかなり書き手や語り手を実体化しています。”

 については、「実体的な作者」問題があることを意識した表現です。文学理論においては、このような「実体的な作者」を嫌いこともあり、テキスト上から推測される作者像しか知ることができません。現在であればまだ生身の作者を見ることができますが、古典テキストはそれは無理ですから、推測される作者像しか思い描くことができません。しかし、これはかなり抽象的な存在になりがちなので、私は具体的に書いた人がいて語った人がいると考えた方が生身の人間がいると思い、生身の人間がいるんだと思うことがその人を排除しなくなるのではないかと考えています。


 あと、何かを語るってことは、「語らざるをえない」と言い換えてもいいと私は考えています。ただ、この認識に至ったのはなぜかというのは、今は説明ができません。私は「人は何かを語らざるをえない存在だ」と思っていますし、人をそのように規定していくことがいいと思っているからです。これは私の人間観の問題だと思います。ここについてはこれから何か言葉がないか考えていきたいと思います。



 すべてに答えたわけではありませんし、前後がおかしいところもありますが、私からの今の段階における応答は以上の通りです。


【最後に】

 もう少し考えたいところもありました。まだ答えていない問題もあります。ただ、今日のうちにさっと書いておかないと私は本当にしばらく書かないような気もしました。最悪、もう書かなくていいかと思うようになってしまったかもしれません。
 また、Twitter上では様々な思想家のことをうかがい、ブログの言葉にどのような思想家の言葉があるのか、これについては生かし切れていなかったのは申し訳ない。どういう思想的背景があって、この疑問が生まれて、何が共有できないのか、ここは明らかにしたかった。時間をかけて考えます。

人間の本質と語ること

 昨晩、語ることや言語が人間の本質だとつぶやいたことに対して、なぜそれが人間の本質だといえるのかと質問を受けました。短文ではたぶん伝わりづらいところもあると思うので、ここに書いておきたいと思います。

 「本質」という言葉は誤解の生じる言葉だとは思いました。基本的には突き詰めると本質なるものはたいてい「ない」と結論づけられることが多い。人間でも何でもいいですが、それにはいくつかの条件はあってそれらから規定することはできるでしょうし、これまでもなされてきました。それが共通理解として多くの人に共有されると、「たしかにそうかも」と思うようになるのでしょう。それでも、「本質」だと言い切れるかどうかが不明のことが多い。

 「人間は語る存在だ」と言ってもよかったかもしれません。しかし、この言い方にしてもたぶん私の中では「語ることが人間の本質だ」ということと同じことになるので、「本質」という言葉をこれまで使ってきましたし、使いました。一方で、様々な事情によって語ることができない人々も一定数いるわけで、この言い方を前提とすると人間の条件としては当てはまらないことになり、ここには注意は必要だろうと思います。
 
 語るということは、日常的な行為です。私が誰かに語る、誰かが私に語る、私が私に語る。テキストも書き手が書き、語り手が語ります。この時、「誰に?」というのは想定された読者や聞き手ということもあるでしょうし、具体的に読む私たちのような読者がその語りを自分に向けられたものだと考えることもできるでしょう。

 国語教育の世界では、こういう語ることの側面に①何を語るか、②いかに語るか、の二側面が多いように思います。

 ①の「何を語るか」については、たとえば読解の時に何が書かれてあるか、その情報の取り出しやその意味するものを理解することが主だろうと思います。これは入試問題や試験問題を解く時に中心となる視点でしょう。ここでは語られた言葉の意味がわからなかったり、抽象度の高い語彙や歴史的に長く議論されてきた概念などがでてくると読めないこともあるわけで、こうした言葉の意味を丁寧に押さえて、それをこれからの自分の読解に活かしていくために少しずつストックされていきます。

 また、何かを語るということは、語られない何かがあります。私たちは見たもの聞いたもの考えたことをすべて語り尽くすことは基本的にはできず、自分の関心に沿って選択していっています。これなどはたとえば複数のテキストを合わせていくことで、最初のテキストが何を語っていなかったのかを明らかにすることができるでしょう。このような学習過程を設けることで、ある書き手や語り手の偏向性や関心や欲望について理解することができるでしょう。
 
 
 ②の「いかに語るか」については、たとえばどのような構成にしたら相手を説得しやすくなるのか等の表現の工夫があると思います。どうしてこういう言葉遣いをしたのか、またはなんで物語の設定をこのようにしたのか(『源氏』の紫の上と源氏との間に実子がいなかったのはなぜか等)、そんなことも含まれるでしょう。「こころ」でも、なぜ「先生」は自分がKを殺してしまった責任のあるような書き方にしているのか、こんなことが問題にできるでしょう。語り方に注目することです。


 ①と②では、書き手や語り手の意図なるものはあったと思いますが、それが読者に伝わるとは限りません。しかし、「こういうことが書いてあるってことはどういう問題意識があったのか」とか「こういう書き方にすると読者にはどのような印象を抱かせると考えられるか」などの問い方は可能だろうと思います。

 私としては①②に加えて、③なぜ語るのかに関心があります。そもそも人が言葉を発することの意味、語る行為の意味、このことを考えてしまいます。これはテキスト中の登場人物や語り手(「少年の日の思い出」の「私」がなぜ「客」の話を語ったのか、「ごんぎつね」の語り手がなぜごんの物語を語ったのか、「こころ」の「先生」はなぜ「私」に遺書を書いたか)ということです。評論文ですと、ある危機意識、問題に感じたことを誰かに伝えたいということもあるでしょう。

 私はこういうテキストを読み取り、テキストの書き手や語り手がそもそもなぜ語るのか、語ろうとするのか、ということから「人は他者に語らざるをえない存在なのだ」という認識で授業を構成しています。このことは、テキストの言語行為と私たちの日常の言語行為がクロスする瞬間、接点をもつ瞬間、「ああ、こういうのって自分たちにもあるよね」とか「ああ、こういうのがあったんだ」という瞬間を授業の中で生み出していきたいと思っているからです。ここではかなり書き手や語り手を実体化しています。
 語ることは必然的に他者を要請していくものであるし、この世界は大勢の他者とともにある以上、これは人の生に関わる問題だとも思っています。語ることから始まる、といってもいいかもしれません。そして私はここを出版点としています。

 だいたいこのような考えで、(①~③はスッキリと分けられるものではないと思います)私は語ることやその言語は人間の本質だ、と書きました。ここではある種の信念や信仰に近いものというか、信念や信仰だと考えてもいいと思います。もちろんすべてがこの「本質」で説明ができるわけではありません。少なくとも、こういう考えや立場で授業をしていく方が「何を」語ったかだけでは終わらないことの方が多い、というのが現実的な問題だろうと考えています。
 また、これは書き手というか表現をする人の存在を無視することを避けることができるのではないかとも思っています。「人は何かを語らざるをえない存在」、「人の本質は語ること」と設定しておけば、そこには必ず語り手がいて人として排除されない形で読者と対話する場を設定できるのではないか、という考えです。

 「対話」と書きましたが、これは単なる会話ではなくて、その人を認め、その人もまた認められうる、しかし必ずしも融和だけではなく対立のあることです。あるテキストの書き手の意見を批評する、ということは大切なことですが、そもそもなぜこの書き手はそんな意見を書いたんだろうか、というところまでを引き受けて、そこをも含めて応答していくことが必要だろうと思っています。テキストを読むことが、生徒たちの日常の語ることについての内省や発見につながるようにしたいと思っています。

 これはかなり理念的な話だろうというのは自覚しています。現実問題こうした授業を設定することがどこまでできるのかも難しいとも思っています。
 しかし、この立場から私はいろんな実践には意見をしていくと思います。私は教材ベースで授業をする人間なので、その教材の可能性を書き手や語り手の語る行為の深さに注目していきたいと思っています。したがって、この深さの軽視はもとより、誰かが何かをどのようにしてそもそもなぜ語るのか、ってことをほとんど考えていない授業についてはやっぱり批判もします。
 もちろん、教材ベースではない授業はたくさんありますし、この立場では実践できないものもあるでしょうし、必ずしもこの立場で授業ができるわけではありません。私自身もずっとこの立場で授業をするわけでもありません。しかし、この立場で分析、構想ができるような授業に関しては意見を述べていきたいと思います。
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