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はじめに

 ひょんなことからブログを立ち上げました。
 現役の中学校・高校の国語の教員です。ツイッターもはじめました。「国語科教員」という名前なので、いつでもどうぞ。
 まだ不慣れなのですが、やりたいとおもっていることは以下の3つ。


 ①国語科教育にまつわる話
 →高等学校国語科の授業のアクティブラーニングの実践まとめ(随時更新)

 ②国語(現代文・古文・漢文)の参考書、問題集の分析や評価
 →問題集・参考書のまとめ


 ③大学入試問題や私学適性検査の国語の解答作成
 →今のところ無理っす

 ①についてですが、読者層は同業者やこれから国語の教員になろうとしている大学生を想定しています。意外に語られることがあるようで、実はあまりないようなことなどを話題としてとりあげてみたいとおもいます。

 ②についてですが、インターネットの世界ではさまざまな参考書や問題集への評価がありますが、なんとなく腑に落ちないところもあるので、私的整理の意味合いを込めてやってみたいとおもいます。

 ③についてですが、需要があるわりに解答が作成されていない問題がわりと多く散見されます。特に私学適性検査(毎年8月下旬に大都市で行われる私学の教員になりたい人が受ける試験)の問題文は何度かみてきましたが、なんともいえないものです。これはまた話題にしてみたいとおもいます。


 時には脱線をすることもあるでしょうし、時期的に更新が難しいこともありますが、よろしくお願いいたします。

 コメントなど気軽に書いてみてください。
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研究と教育

 人文系の学術書を多く出している勉誠出版がここ最近アレっと思う書籍を刊行したことに多くの反応が寄せられている。
 日比嘉高氏も反応しつつも、そうなってしまったことに一研究者としてこれからの研究のあり方を述べている。

 勉誠出版がネトウヨ化しているという悲報に接したあと自省した夜

 私はといえば、これを読みながら2年前に書いたブログのことを思い出した。岩波書店の『文学』が休刊になった時に書いたもの。
 
 文学雑誌の休刊

 ここでは私は研究者の語り方が悪かったと書いた。自分たちの世界だけで研究をしてきて、それが社会にとってどういう意味を持つのか、社会との接点を見いだそうとしないことに問題があり、そのことを自覚していく必要がある、語り方を変えていく必要があると書いた。
 あれから2年数か月、人文学の軽視、いや研究そのものに対する疑義が寄せられ、科研費批判や大学の実務家教員の配置計画等もあり、事態はいっそう悪化していると思う。また、ここ最近の文科省の失態や大学入試の不正によって大学は攻撃されていくと思う。
 まだこのことに危機感を抱いておらず、自分の身の回りの世界が安定していればいい、あと数年で定年だからあとは若い人に任せて、という楽観的な人もいると思う。私は研究者といえども人間の生活があるので、そういう生き方もいいと思う。社会との関わりもあまりなく、しかし研究をすすめていき貢献をしていっているのであれば、それも一つの生き方だと思うし、それは否定されることでもない。若い研究者で安定した職もなく、それどころではないという人も多いと思う。そんな人に「だからお前の研究はダメだ」「もっと社会に開かれて」と言うのはあまりにも酷だと思う。

 むしろ、私は人文学の軽視や文学の危機が叫ばれて、それに対して「私たちは何をしてきたのか」という自問をしつつも、それが単に自問で終わって、いや自問の形をとっているだけでなんとなく現状を批評して未来への道筋を述べているようで、何の解決にもなっていないことに問題があるのではないかと思う。そしてまた、「私たちは何をしてきたのか」という言葉を読んだだけで、「ああこの人はわかっている」と納得してしまっている読者もいるのだと思う。そして、そんなことが積み重なっていて、従来の研究の中でも決して犯されてはならない場所を守り抜くわけでもなく、それらを批判的に継承しながら新しい方向性を見いだそうというわけでもない、実に中途半端なものになっているのではないかと思う。表面的な言葉で慰め合っているだけで満足してきたのではないか。


 私は中等教育で国語を教えている。いろいろな研究成果を学び、それを授業の中で用いている。中学生や高校生相手であったとしても、大学で研究されていることは授業者の工夫と方法次第で直接的・間接的に出会わせることができる。そして、決して多くはないにせよ、一定数の学習者は研究に触れていく、そして最先端で議論されていることに触れることができて喜ぶ。古典とは何か、文学とは何か、言葉とは何か、人とは何であったか、何であるのか、こうした根源的な問いに対する明快な答えではないけれど、それらを考えている人たちがいる、その人たちはこういうことを考えている、これらに触れる。

 拙著『国語の授業の作り方』は教育実習生用で始まったが、途中から欲を出して研究者に向けたものを含めた。研究者が中等教育に少しでも意見をするようになれば、関わっていろいろな資料・史料や成果を共有することができれば、私たちは使えるし使っていく。それがひいては中学生、高校生に対して「研究とは何か」を考える材料になると考えたからだ。その中で、研究に対するリスペクトを抱くこと、これが中等教育でも求められてもいいのだと思う。
 資質や能力、あるいは「学力」なるものの育成は確かにしていかなければならない。しかし、それと同時に私たちの知を支えているもの、その知を産出していくもの、また支えてきたもの、産出してきたものに対するリスペクトがなければならないのではないか。そしてそれは触れた段階でそう抱く生徒もいるし、触れてもそんなことを感じない生徒もいる。しかし、触れるレベルをさらに深くしていくことで抱くこともある。そしてこれは単に資料を丸投げしていけばいいわけではない。ここに中等教育に勤める者の責任と見識が問われるのだと思う。

 人文学の軽視の文脈で、「文学」軽視についてはたしかに中等教育でも新学習指導要領との絡みの中で話題にはなっている。しかし、研究そのものに対する話題はほとんど聞かない。それは高等教育においてのみ議論されているような気がする。でも、それは大学だけではなく中学校や高校でも十分に議論できることであるし、していく必要はあると思う。

「文学」や「古典」を教室で教えること

 拙著『国語の授業の作り方』が刊行されて、3週間近く経とうとしています。

 古田尚行『国語の授業の作り方 はじめての授業マニュアル』(文学通信)

 


 いろいろな反応があり、本書を刊行をしてよかったなと思っています。そして、いくつかの案やご意見もいただきました。

 一つは読書はがきから。→読者はがきより(2018.7.30)★『国語の授業の作り方』

 「学ぶ所の多い本でした。学校の教師だけでなく、大学の教員や図書館や博物館などの社会教育施設の職員で講座や講習会の講師役を担当することになった人にもオススメしたい内容です。最後の文献リストは改善の余地あり。文章(説明)にくらべて挙げられている文献の量が多いので見づらいか。リストにしたほうがよいのでは。」

 おそらく、一人の国語科の教員が書くには多すぎる文献リストです。その一つひとつを説明できたわけではなく、列挙した本もあったため、読者(特に学生)としてはどれから手を出せばいいのかが判断しづらいところもあっただろうと思います。この点に関してはまたどこかで改善していきたいと思います。


 もう一つは古典文学研究者である松尾葦江さんのブログ「中世文学漫歩」から。→中世文学漫歩
 二点あります。まず一点目。


 「本作りの面からいうと、率直に言って、1~3章までを独立させ、『教育実習に行く前に読む本』と銘打って、事前指導ガイドとして売るべきだったのではないかと思います。4章と5章の一部をもとに『教採に受かったら読む本』というのを1冊、そして古田さんの経験に基づき、国語教員の仕事とは何かを論じる3番目の本の核に、5,6章が据えられる、というのが望ましい。」


 この点については正直悩ましい。すでにごらんになった方はわかると思いますが、この本は読者層の想定を広くしています。中心は教育実習生ですが、それは主に1~3章で、あとの4~6章は教育実習後のことなので、現場で実際に授業をしている授業者に向けていますし、随所に文学や言語研究者、国語教育研究者に向けても発信しています。

 1~3章を膨らませてそれで一冊作ることは可能でした。もっと教育実習中に起きる出来事に対する具体的な方法や考え方を書くことはたぶん実習生にとってもありがたいと思ったことでしょう。ただし、それだけを書いたとしても何を教えるのかを具体的な教材に即していないと、単なる方法論で終わってしまいます。私自身が読んできた様々なテキスト、教科書教材を具体的にどのような視点で読み解き、それをどう具体的に授業化していければどのような授業ができるのかまでを知る必要があると思っています。

 また、4章、そして特に5章についてはさまざまな「観」についての話題です。私は授業作りの方法はこの「観」によって大きく異なると考えています。「子ども」や「国語」、「文学」や「古典」をどのように捉えるのか、これは些細なことかもしれませんが、確実に授業の方向性を変えていくものだと思っています。
 そして二点目はまさにこの「文学」や「古典」観に関わる指摘です。


 「なお『ともに読む古典』(笠間書院 2017)のあとがきに書いた拙文を取り上げ、「文学は文学として読まれるべき」という発言を気にしていますが、果たして正しく読んで下さっているのかどうか疑問に思いました。他人の文言を批判するときは、何がどう問題なのかを指摘して、その「問題」の中身を批判すべきです。でないと議論になりません。古典教材を読む時に、教訓に要約したくない、と私はあとがきで述べました。文学は寸言に要約できない、善悪で分断できない、この世界の複雑怪奇さをまるごと抱え込むものだからです。文学とは何か、は教室で開陳せずとも、教師の中でそれぞれに成立しているはず、それがないまま教えるなら、ただの語列をなぞるに過ぎません。もしや古田さんは、「文学」とか「古典」とかいう語を使っただけで、無前提に「いいもの」とするのでしょうか。」


 私はこの点について次のように書きました。

 「しかし、「 文学は文学として読まれるべきで」あると言った場合の「文学として読まれるべき」という発話に一つの文学観が垣間見えます。こうした前提とされた文学観とは何か、それはどのような古典教育につながっていくのか、そして古典を教室で学ぶ時にはそれで十分なのか、問わない方がいいのか、私にはそれらが気になります。もちろん、杞憂に過ぎない、考えすぎだ、そんなことは問題ではないという意見はあるでしょうし、私自身も古典を教室で学ぶ時にはこの問題を抱え込まないことの方が多いですし、それ以上に生徒が「古典って面白いですね」という発話をすべて問題視することには抵抗はあります。」 (171ページ)


 ここで松尾さんが書かれている「文学は寸言に要約できない、善悪で分断できない、この世界の複雑怪奇さをまるごと抱え込むものだからです」は、私もそうだと思います。そのような古典とは「他者」であり、安易な他者理解はできないとも思っています。

 一方で、私は「文学」観や「古典」観なるものから中立的な立場ではありえないとも考えています。「文学は文学として読まれるべき」と言った場合の「文学」は、比較的妥当な「文学」の定義だと思いますが、それが教室で読まれてしまう場合には生徒に様々な形で作用すると考えていますし、それに対して授業者はできる限り自覚的であるべきだという意味でここは書いています。

 「文学」観や「古典」観は、小さいころから今に至るまで読んできて感銘を受けたもの、学校教育や受験でのテキストに出会って、そこでの解説や「信頼できる」人の発話によるもの、そうした感銘や出会ったものを対象化して自分で新たに組み替えてできたもの、そしてまた一度は捨て去ったはずの文学体験や記憶として回想されたもの等々、こうしたものとの出会いによって構成されたものといえますし、これらは基本的には更新し続けていくものだと思いますが、固定化してしまうことが多い。

 意図のない授業はありえませんし、意図がなかったとしてもそこで「文学を教える」と言った場合には必ず授業者やその授業者の背景に広がる世界、その授業者を作り上げていった世界の「観」が出ています。そもそも、教科書というメディアが様々な人々や社会の「観」や欲望の下に編成されたものです。
 文学は文学として読まれるべきという問題と、実際に文学を教室で読む問題は、私は非常に落差があると思っています。

 「文学とは何か、は教室で開陳せずとも、教師の中でそれぞれに成立しているはず、それがないまま教えるなら、ただの語列をなぞるに過ぎません。」とありますが、「文学」とは何かについては人によって異なるところはあるでしょうが、必ずあります。
 しかし、たとえば4年間国語科の教員養成の大学で学んだ「教師の中でそれぞれに成立しているはず」の「文学とは何か」という考えはあまりにも弱いものが多すぎて、すぐに他者の「文学」観で上書きされていくものだとも思っています。
 学生や院生に聞いてみてもいいと思います。「あなたにとって文学とは何か」と。人生を豊かにしていく、想像力を豊かにしていく、現実世界から抜け出していける、あるいは現実世界を変えていける、そんな力を持つテキストや言語行為等々さまざまな答えが返ってくるでしょう。そして、私はこれらは否定しませんし、むしろこうした力を持っていると信じているからこそ、授業を作る上でこうした「観」の問題をどこまで考えていくのかについて逡巡しているのです。


 「もしや古田さんは、「文学」とか「古典」とかいう語を使っただけで、無前提に「いいもの」とするのでしょうか。」


 この点については、「文学」とか「古典」という語を使う人には無前提に「いいもの」としている人が多いから、注意してくださいということです。
 テキストの意味は読者が創造するという考え方がありますが、一方で「古典」に関していえば読者とは別の形でその意味がすでに用意されています。昔から今に至るまで読まれ続けてきたものであれ、一度は断絶して近代になってから「再発見」されたものであれ、「古典」には「伝統」という言葉とセットになって、読者はというか、特に教室で「古典」読む/教える場合にはこれを無視することはできません。「古典は古典だから意味がある」という言葉も時には必要となる側面を否定はできません。
 しかし、それでもなお、「古典は古典だから」というところに落としていくだけではなく、生徒自身が一読者となってテキストを批評していく、作者や語り手と対等な立場で対話をしていける場を用意することを授業者は目指す方がよいと思っています。そして、その時ににじみ出ている授業者の「古典」観にはできる限り注意していきましょうと(当然、ここに至るまでに授業者はいろいろと勉強しておかないといけません)。

 古典教育論については、様々な議論があり、それらの歴史を踏まえていくことも一つの方法だったかもしれませんが、カノンとしての古典の問題は教育現場においてはほとんど問題になっていないと考えたので、この問題だけを5章で取りあげました。

 私は古典は面白い、意味があると読みながら考えることは多いのですが、そしてそれをもとにして授業を組み立てることもあるわけですが、こちらの抱いている「面白い」が生徒にとっての「面白い」ものではありませんし、しかしそれが大問題だとも一概にはいえません。
 授業者は理想的な読者でも授業者でもありませんから、必ず偏りはあります。そしてその偏りによって生まれた授業であっても素晴らしい授業はたくさんあります。しかし、この「偏り」をどこまで自覚的に考えていけるのか、私がこだわっているのはこの1点です。なぜなら、こだわならかったらいずれ忘れ去られてしまうからです。もちろん、忘れてもいい。が、私は忘れたくない。
 「学び」が生徒のことだけではなく、授業者のことでもあり、そして「常に学び続け、問い続ける」存在であると書いたのは、このような事情もあるからです。


 以上、長い説明になりました。
 どこまで答えることができたかわかりませんが、ひとまず私なりの回答です。
 ご意見、ありがとうございました。

空いている席

 昨日は月一の勉強会に行ってきました。
 最初にそれぞれの教員の近況報告があるのですが、やはりこの度の豪雨災害に関わることが多くありました。自身の家や地域、実家の被害、同僚の被害、生徒の被害、ボランティアに行ったこと、あまりにもむごい現実と、一方で何の被害もなく過ごしている人と、いろいろな話がありました。

 私が一番心が動かされたのは、ある高校の先生の話でした。その学校は広島県でもいろんな地域からやってくる学校ですが、終業式の日、校内放送で校長が話をしました。その時に、「席にいない人のことを想像してください」と言ったそうです。当然のことながら、この度の災害によって早めの終業式になったり、再開しても何人かの生徒がおらず、そこには空席があります。その空席が何を意味するのか、なぜいないのか、ここではないところで何をしているのか、どのような心境になっているのか、そんなことを考えてほしいという校長の想いがあったのだと思います。

 しかし、このことは今回の災害だけの問題ではなく、普段の学校生活においても考える必要のあることだろうと思います。
 事情があって学校に来ることのできない生徒はたくさんいます。長期欠席の場合はいないことが当たり前であり、そのことに慣れてくるとその存在も忘れ去られていきます。そのうち、「なぜこないのか」「ずる休みをしている」「いいなぁ」と生徒からは聞こえてくることもあります。もちろん、これは悪意のあることばかりではなく、「素朴」な感想であり、言葉であると思います。

 私たちはみんなが当たり前だと思う場所から、突如いなくなる危険性は常にあるはずです。その時、先のような言葉を言われること、実際に聞くことはなくても、そういう言葉が飛び交う空間になっていること、そんな風に思ってしまうことは、非常に哀しむべきことだろうと思います。

 「空いている席」から、何を想像するか。そして、その「空いている席」は常に「その人」に開かれたものとしてみなが努力をして確保していくことの大切さ。
 そんなことを思いました。

想像力の欠如

 この度の豪雨により、私の住んでいる場所、勤務地、通っていた大学、知り合いの過ごしていた日常空間がことごとく破壊されたことに対して、言葉がありません。1週間経って、いろいろなところで復旧がなされて、日常に移りゆくとともに、しかしそうした日常の一部すらまだ取り戻せていない人はまだ大勢います。

 7月6日の金曜日、広島市内から新幹線に乗り、しかし新尾道駅で止まりました。その日はもはや勤務校に行くことができなかったので下りの便に乗って広島に戻り、自宅待機ということになりました。私と同じ便に乗った教員は、広島に引き返した後も高速バスにより勤務地に向かいましたが、この教員が戻ってくることができたのは次の日の夜でした。私はまさに幸運だと言っていいのかもしれません。
 その日からまざまざと見せつけられる現実、世界の崩壊、増える犠牲者、まだ全容がはっきりとしない中で、自分の知人はどうなったか、生徒たちはどうなったか、心配でした。

 物資がなくなり、交通網も遮断され、孤立と孤独、そして大切な人を亡くし、その悲しみも癒えぬままそれでも生活しなければならない。この10年間の間に、いくつかの災害がありましたが、それこそ東日本大震災のような未曾有の大災害もありましたが、2014年の8月、この時にも広島では土砂災害がありました。この日の夜は雷と豪雨で、寝ることが難しいくらいの恐怖でした。この時にも知人や生徒たちの中には多くの被害のあった人もいます。
 ただし、今回ほどさまざまなことに絶望したことはありませんでした。

 今回の件では、私は比較的不自由のない生活を送れています。テレビで放送された場所と同じ区に住んでいますが、全くといっていいほど、被害はありません。同じ「広島」といっても、先にあげたような甚大な被害に遭ってしまった人と、私のような日常を無理なく過ごせている者とがともに住んでいます。そしてまた、このことが心苦しいとも感じます。
 シャワーを浴び、好きな時に飲食ができ、本を読み、ネットを閲覧するという、当たり前のことができている自分と、そのどれもができない、する余裕のない、与えられたものを享受するしかない、選択するという人間の尊厳に関わるものも得られていない、そんな人たちとの落差に、なんとも言いがたい感情に覆われています。

 学校も再開しましたが、教職員や生徒の中にはいまだ当たり前に戻れていない状況があることを知りました。
 私の尊敬する先生の住まいの周りも被害ははなはだしく、残酷な現実を見せつけられました。
 6年間通った大学も同じく被害がありました。6年間過ごしてきた場所が、ことごとく奪われてしまった、そんな感覚です。
 日常がかつてと同じように元通りになることはおそらくないと思います。今回の件で生じた感情や記憶は、必ず影響を与えていきます。

 東日本大震災にしても、4年前の広島土砂災害にしても、熊本の地震にしても、その度に人と自然との関係を考えてきました。月並みな言い方ですが、自然は恐ろしい。だから人間は謙虚にならないといけない。防災は不可能で減災に努める必要がある。ネットワークを構築していく必要がある。被災者が少しでも安住できる避難場所を作る必要がある。そんなことをその度に考えてきました。
 しかし、私が今回絶望したのは、私自身の想像力の欠如でした。
 今回よりも前の災害を見聞きし、その度に心を痛めたのは事実です。なんとかしたい、できることはできる範囲でやっていきたいと思ってきました。
 でも、私は本当にそれらの災害に遭った人々の心情や心境を深いところで想像ができていたのか、同じ日本といっても直接関係がない第三者として冷たくみていたのではないか、交通網が遮断され、電気も水も使えない人々がどのような生活をし、どのような苦しみを抱き、絶望の最中にある人々がそれでも前に進まざるをえない状況があることを、私は本当に理解していたのか、理解しようとしてきたのか、そのことを考えると私はたぶんそうではなかったのだと思ったのでした。

 体験や経験が全てではありませんし、それらがなくともある程度の想像を働かせることはできます。しかし、私はそこを怠っていたように感じました。自分の周りの人々が蹂躙されていくことで初めてそのことに気づいてしまったことには、本当に絶望しています。
 そして、こうした「自分自身に絶望した」と表現することで、そういう自分を客観視して言語化できたことに安住してしまっているかもしれない自分に対しても、絶望しています。

 何も知らなかった、知ろうとしなかった、そうした事実をただただ受け止めながらここ数日は過ごしています。
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