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はじめに

 ひょんなことからブログを立ち上げました。
 現役の中学校・高校の国語の教員です。ツイッターもはじめました。「国語科教員」という名前なので、いつでもどうぞ。
 まだ不慣れなのですが、やりたいとおもっていることは以下の3つ。


 ①国語科教育にまつわる話
 →高等学校国語科の授業のアクティブラーニングの実践まとめ(随時更新)

 ②国語(現代文・古文・漢文)の参考書、問題集の分析や評価
 →問題集・参考書のまとめ


 ③大学入試問題や私学適性検査の国語の解答作成
 →今のところ無理っす

 ①についてですが、読者層は同業者やこれから国語の教員になろうとしている大学生を想定しています。意外に語られることがあるようで、実はあまりないようなことなどを話題としてとりあげてみたいとおもいます。

 ②についてですが、インターネットの世界ではさまざまな参考書や問題集への評価がありますが、なんとなく腑に落ちないところもあるので、私的整理の意味合いを込めてやってみたいとおもいます。

 ③についてですが、需要があるわりに解答が作成されていない問題がわりと多く散見されます。特に私学適性検査(毎年8月下旬に大都市で行われる私学の教員になりたい人が受ける試験)の問題文は何度かみてきましたが、なんともいえないものです。これはまた話題にしてみたいとおもいます。


 時には脱線をすることもあるでしょうし、時期的に更新が難しいこともありますが、よろしくお願いいたします。

 コメントなど気軽に書いてみてください。
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作者の意図、出題者の意図について―2018年度センター試験国語の講評

 今年も読んでみました。具体的な問いの解法は役に立たないと思うので、問題文の内容やテーマ、どんな問題領域とつながっているか、それらについて私見を交えながらまとめておきたいと思います。
 「作者の意図」、「出題者の意図」の問題を軸としながらまとめてみたいと思います(現代文だけ)。


 なお、難易度は単純に過去の年度と比較はできませんが、問題文は読みやすいものが多い。ただし、表現の問題などで本文を丁寧に確認しながらじゃないと正確に解けないものもあって時間が使われるというのは例年のこと。
 いずれにせよ、奇をてらったものや難問は見当たらないので、平均点は120点はいかないまでも、110点台前半(111~116)くらいかな。去年よりは確実に上がると思いました。去年は106点だったので110点はあると思います。が、こればっかりは集計しないとわからないものです。


 参考までに今年の出典は以下の通りです。

 評論:有元典文・岡部大介『デザインド・リアリティ-集合的達成の心理学』
 小説:井上荒野「キュウリいろいろ」
 古文:本居宣長『石上私淑言』
 漢文:李燾『続資治通鑑長編』


 さて、国語科教育の世界や国語の試験では「意図」の問題がしばしば話題となります。
 「作者の意図」がその代表例です。
 作者は作品の創造主であり、その作品の意味するところは作者(だけ)は知っており、読者はまだ到達できていないその作者の意図を作品を読解することで少しでも到達していこうとしてきました。文学研究の世界ではしばしば作家論という研究方法や視点として紹介されます。
 また、この構図は作者=神、作品=聖書、読者=信者という関係にも似ており、この類似からは作品を読むことがある種の権力構造の中にあることを示唆しています。作者=神には逆らうことはできません。

 しかし、よくよく考えてみると作品の意味は作者も知らないところもあるわけです。人には無意識があるかもしれないし、言語は自分のものではなく他者の言葉(の引用)かもしれないし、その言葉の発話はある文化的社会的な構造の中で意味が生成されるかもしれないので、自分が考えた意図があったとしても読者に伝わる保証はありません。またその「意図」が作者独自のものかどうか、他者から影響を受けた意図ではないか等の問題もあるでしょう。
 逆に、生身の作者が確かに生み出した作品があったとしても、その意味を作者以上に読者が紡ぎ出すこともあるでしょう。注釈行為も同人誌もその流れにあるともいえるでしょう。作品は読者に開かれたテキストです。そして作者は一人の読者であり、登場人物かもしれません(読者よりも上にいるとも言い切れないという点で)。
 
 そんなわけで、いろいろな事情を踏まえ「作者の意図」という言葉をなかなか使いづらくなってきました。とはいっても、これは「作者の考え」は依然として問われていますし、「表現の狙い」という言い方もされます。そして妥当な答えが導き出されることも多いので全否定することもできません。また、小説の場合は使いづらくなってきたとはいえ、何かを創作したりスピーチした時には「意図」は明確にするというか、求められることは多い。このあたりはフィクションとノンフィクションという区分をどの程度曖昧にするかによって考え方も異なるように思います。

 一般に作家作品論→テクスト論という流れがありますが、そんな簡単な問題でもないし乗り越えられているかというとそうとも言い切れません。
 興味のある方は、たとえば次の本を読まれるとよいでしょう。中村三春氏の「作家論」の項目を参照。

■日本近代文学会『ハンドブック 日本近代文学研究の方法』(ひつじ書房、 2016年)
 

 →ひつじ書房のHP(目次などがあります)


 本文の内容からは「作者の意図」を越えた読み取りが行われることもあり、テキストの言葉や言葉のつながり、構造から捉えられる読解していくのが学校で行う読解行為(読書行為)です。もちろん、「言葉はないけれど、たぶんこういう意味もある」ということもありますし、こうした読みを取り入れることによって教室空間が変わっていくこともあります。もちろんここには授業者への忖度もあるでしょう(あったでしょう)。
 

 さて、「作者の意図」は見えづらくなりながらも、国語の試験においては「出題者の意図」と言われるようになりました。単純に本文の内容(作者の意図を読解するのではなくテキストの言葉から読み取れる妥当な読みや解釈)を答えるのではなく、出題者が何を求めているか、それに合った解答をせよ、というわけです。
 このような文脈での「出題者の意図」という言葉は、わりと冷ややかに見られているように思います。結局、また忖度かと。
 しかし、単なる批判で終わるのは望ましいことではありません。

 試験というのは、出題者が「これって何? 説明して」と訊いてきて、受験生がそれに対してテキストのことばを根拠として「これは○○のことです」と答える一つのコミュニケーションが成立しているかどうかが判断される場です。訊いてもないことをべらべらとしゃべるのはコミュニケーションではありません。書いてあることを無視して一方的にしゃべるのは好ましいことではありません。選抜(評価)する側、選抜(評価)される側という上下関係があるから、批判されるような気もするのですが、こうした場というか、こうした力は否定されるものではありませんし、むしろこの力がなければ試験どころか社会生活も難しい。
 もちろん、冗長なコミュニケーションは必要である、それは当然だという意見もあります(たとえば平田オリザ氏)。
 コミュニケーションといってもいろいろな状況があるので、試験においては厳密に、あちらの意図を外さずに、こちらの意図を意味が多義的にならないように明確に答えていくことが必要です。本文の内容はわかっていても試験で点数がとれない場合、設問をきちんと読めているか、何が問われているのかを理解できているか、このあたりに理由がありそうです。


 以上が長い長い前置きです。

 「作者の意図」にせよ「出題者の意図」にせよ、テキスト内部の問題になってしまうのですが、そもそもなぜ出題者はこのようなテキストを素材文として出題したか、このこともかなり重要だと思います。
 なぜこの素材文なのかについては、第一に受験生の力を測るための適切な問いが作れるかどうかだろうと思います。明らかに難しいもの、易しいものでは受験生の力を適切に測れているかは怪しいし(もちろん問いのレベルによって易しい文章でも難しくなるし逆もある)、受験生の力の弁別も必要です。それらの条件を満たした素材文であるかはたぶん考慮されているはずです。

 そしてもう一つは「この文章を読んでほしい」、「この文章が問いかける問題について考えてほしい」という出題者からのメッセージです。

 評論文は、現実=世界に人為的に手を加える、「デザイン」することによってその場にたたずむ人たちに別の現実=世界があること、別の行為の可能性があることを示唆している文章です。
 本文でも「アフォーダンス」という用語が出てきました。これについてはググってもらえればいくらでも例があると思うのですが、主体の認知は純粋にその個人内で起きることではなく、環境との相互作用によるものであるということです。また、環境によって自分が自然と何か促されていくこととでも言いましょうか。
 センター試験はマーク式ですが、記述式の場合とでは問題文に向き合う態度や行動も変わっていきます。様々な環境、あるいは指示、言動によって、世界が開かれていくわけです。そして何かに導かれていくこともあるわけです。教室に本を置くことも、生徒たちが読書の世界に足を踏み入れる、新しい物語世界に参加する可能性を生み出します。

 さて、この評論文を読んだ時、最初に講義の例が出たからというのもありますが、これは受験生の力を測るとともに、学校教育に関わる人、あるいは教育に関わる人に向けられたメッセージもあるなと思いました。近年では学びのデザインが更新されはじめています。たとえば一方的に授業者が話す講義式の授業も、生徒を刺激していくこともありえますが、生徒の環境をデザインするのはそれだけでは不十分です。生徒同士の相互作用もあるでしょうし、教材の工夫(出会わせ方、訳、ワークシート、強調)もあるでしょうし、ICTなどもあるでしょう。
 学びの環境をどのように変えていくのか、変えていけばいいのか、このことを出題者としては考えてほしいというメッセージだと受け取りました。もちろん出題者は一人ではないでしょうし、そのような意図があったかどうかは確認のしようがありません。ただ、昨今の教育の文脈を踏まえると、そのような狙い(願い)として受け止めることもできます。

 また、小説は、自分が生きてきた人生の中に、自分の記憶の中に確かに存在する「他者」の痕跡を、様々な「他者」によってデザインされて発見した物語だともいえます。これは評論文の内容とも関わっています(少なくともそう読める可能性が開かれている)。
 この小説も受験生の力を測るのに適切かどうかという問題以外にも、前述のメッセージとして読めるわけです。他者によって開かれていく自己の問題は大切なものですし、人生のどこかで考えてほしい問題の一つです。
 多少道徳くさい場合もありますが、すべてのテキストにはそうしたメッセージ(声)があるはずですし、一つだけとも限りません。

 こうした「出題者の意図」というのは、「出題者の願い」です(正確には「出題者はこのようなメッセージを送っているんだな」と読者が触発されて読み取ったものです)。
 そして、こうした「願い」は、たとえば石原千秋氏が「国語は道徳だ」と言っている問題にもつながってきて、教科書の作品や教材編成による意味の連関、教育言説、それらを支えている教育制度等々、これらに無自覚、無批判のままではある種の価値観に生徒たちだけではなく教員自身も巻き込まれていき、一定の方向にアフォードされていくともいえます。そうした環境に介入することによって、また別の学びの可能性を生み出すことができるかもしれません。すでに存在している文化的社会的な世界にどのような形で介入をしていくか、このことが問われているのでしょう。

 多くは18歳の受験生が読み、中等教育を卒業していく年代の子たちに向けたものが小説だとしたら、そうした子たちと関わってきた、関わっている我々に向けられたものがこの評論文なのだと受け止めたいところです。
 こんな形で「出題者の意図」を考えていくことも時にはいいでしょう。
 誰が誰に何を語ろうとしているか、なぜ語ろうとしたのか、どんな言葉でどんな例で語ろうとしたのか、それに対してどう応答していけばいいのか。そんなことをあらためて考えさせられたセンター試験でした。今年は良かったと思います。

国語科教育は何を目指そうとしているのか(3)小説をなぜ学ぶのか

 小説が好きな人は多いし、逆に苦手な人もいます。苦手な人はその世界に入り込めない理由もあるようです。ファンタジーやSFが苦手というのもそういう理由が多い。
 好きな人は自分の生きている世界とは別の世界を体験できる、見ることができることに喜びを感じる人が多いように思います。

 小説はフィクションであり、ウソです。それ故に現実を変える力もあります。というのは、現実に縛られている限り、あるべき未来や希望(あるいは絶望)を語れないからです。その場合に小説はウソだ、作り物だという議論は意味を持ちません。また、ウソをどう定義するかにもよりますが、ノンフィクションでさえも小説、というより物語だといえます。ここまでくると、ホント/ウソという分け方自体にどこまでの意味があるのかが問われなければなりません。

 小説というと、「想像力」というキーワードとセットになりやすい。説明文や評論文にも想像力は必要なはずですが、小説世界を自分の知識や体験から組み立て、描写や人物の心情や行動の理由を想像することが、特に書かれていない部分を補っていくことが必要となります。

 どのような現実と向き合い、どのような問題が話題となり、どのような人物が発話し、応答していっているのか、またそれを語った人、生み出した人は何を問題意識としてもち、何と対話をしていったのか、それをどのような言葉を用いていったのか、そしてこうした語り手や作者と読者はどのように対話をしていくべきなのか。

 フィクションではありますが、この意味では説明文や評論文、古典とも別段異なるわけでもありません。
 しかし、小説は世界の詳しい説明をしないので、読者(おそらく作者も)は意味を確定しづらいこともあり、しかしこれがまた魅力的だともいえます。そもそも「意味を確定する」ということが社会的文化的歴史的な文脈の中でなされることもありますし、年齢とともに意味が変わってくることもあります。

 これは読者の問題ともいえますが、そもそも小説の言葉というか、言葉自体が他者の言葉であり、過去の言葉であり、語り手や作者が制御できない意味を生み出すものであり、ある強力な思想をもって書かれたテキストであっても、過去の言葉や他者の言葉が動き出し、様々な声として立ち現れてくることもあるでしょう。

 普通、小説の主題は一つではありませんし、どれが一番の主題かというのも判断しづらいものであり、それは読者がどのような記述を自分の知識や体験と重ねていくかによって異なります。同じ読者であったとしても、読みの行為は一回性のものであり、その都度変わっているかもしれません。そして、教室で小説を読むということは多様な読みが生まれる空間に身を置くことです。多様な読みは読みのアナーキーとも言われますが、テキストと出会った読者が産出する読みはアナーキーです。
 とはいえ、極力本文の言葉を手がかりにして、より問題となる声は何かを見出していき、それに応答していくことが必要なように思います。

 しかし、多様な読みといいましたが、一方で多くの読者が単一の読みをしてしまうことも起こりえます。私たちが何かの言葉と出会った時に生じる意味を生み出す社会構造があるからです。私たちのものの見方や感性を定めている構造が、社会的文化的に存在しており、それらを教育(多くは他者の言葉)という営みを通じて内面化しており、「桜を見ればはかない」というように、何かに反応する時の私たちの心の動き方を規定しているともいえます。

 (書きかけ)

 隠喩
 小説の言葉
 語り
 詩歌

国語科教育は何を目指そうとしているのか(2)説明文・評論文をなぜ学ぶのか

 古典(古文や漢文)もそうですが、説明文や評論文も多くの生徒が苦手としています。古典の場合は多くは言語抵抗が理由なのですが、説明文はともかく評論文に関しては抽象的な語や概念が多用されることが理由のように思います。また、共感や批判をしながら読むことができるだけの問題意識や関心があるか、というのも理由としてあるでしょう。逆に、高校卒業してから気になる新書があってそれを読む場合には、スラスラと読めることもあるでしょう。
 全てのことにいえますが、言語能力とは別に、そのテキストに対して前向きな気持ちかどうかは読もうとする意欲につながり、あまり読みたくない、興味のないものはどうして適当に読む、あるいは読み終えずに途中で終えるということもあるでしょう。
 特に教科書の文章は生徒にとって身近なものばかりではありませんし、高校の教材になるとさらに自分の日常生活からは遠く離れた世界について語られたものばかりです。そうまでしてなぜ説明文や評論文を学ばなければならないのでしょうか。

 説明文は物事の仕組み、もっといえば世界の仕組みを説明した文章です。評論文はそれに加えて筆者の価値判断が説明文に比べて多く出ているものです。

 とはいえ、価値判断は、何を話題として取りあげるか、そして何を話題として取りあげないかという選択/不選択の問題にもつながってきます。
 これは説明文や評論文に限らず、およそあらゆるテキストに言えることです。この問題は、クリティカル・シンキングやクリティカル・リーディングという批判的思考や読み方によって補い、主張やその主張に至る論理が適切かどうかの検討が必要となります。筆者の主張や論理の欠点をあげつらうだけではなく(特に人格批判までいくと建設的にはなりづらい)、それを踏まえてより建設的なものにしていくことが大切なことのように思います。
 そしてこのためには教室空間にいる他者の意見が参考になるでしょうし、気づかないことを気づくこともあるでしょうし、気づかせることもあるでしょう。一人でもできるかもしれないが、一人の読書ではできないかもしれない可能性を教室空間は持っています。ただし、こうした教室の空気自体に耐えられない生徒もいます。教室空間を別の形にしていくか、学校外の新しい学びの場を作っていくことがこれからは必要となっていくでしょう。


 さて、以上のことは授業全般に関わることでもありますが、説明文や評論文を学ぶことがなぜ必要なのかを述べます。

 一つは抽象的な語彙を獲得したり、抽象的な思考ができるためです。
 私たちは、日常生活では「具体」で生きています。そして具体は自分の身近な世界にあふれています。生活している中で自分の好みに合わせていろいろな選択をしたり、考えたりします。これは自分の生活をより良いものにしていくためです。具体的な生活です。
 しかし、この世界には自分以外の人が多く存在しています。それは距離的なものでもあり心理的なものでもあります。
 距離的なものでいえば、地球上には決して出会うことはないけれど、数多くの人が住んでおり、しかも生活が脅かされたり不幸な現実に直面している人がいることでしょう。自分が出会うことはないけれども、世界で起きている問題について考えることが抽象的な思考であり、抽象的な生活です。
 心理的なものでいえば、身近なものといっても、たとえば他者は理解が容易にできる存在ではありません。相手もそう思っているかもしれません。互いの言葉や思想を、ギリギリのところで共通化して共有化していくことが抽象的な思考です。一つひとつは自分の体験による感情の発露や意見であり、それらを了解可能なものとして置き換えていくことが必要となります。そして、そのためには具体的な語彙ではなく、まとめあげていく抽象的な語彙や上位語が必要となっていきます。ただし、場合によってはさらに具体的なレベルに落としていくことも必要となるでしょう。

 哲学は世界の説明です。科学も世界の説明です。他にも様々な分野で世界を説明しようとします(宗教もその一つでしょう)。
 難解な哲学書が多いのは、具体的な語彙では説明ができないので、より抽象的な語彙が用いられたり新たな概念が作られていっているからであり、科学の場合も数式などの言語によって説明をしていきます。この世界の仕組みを記述した人たちの言葉を読み解いていくためには、こうした語彙や文法が必要となりますし、どのような文脈において用いられるのかを知る必要があります。この世界とは何か、これを考えるために説明文や評論文を学びます。


 また、別の学ぶ理由としては、先の抽象的思考や抽象的な語彙にも関わってきますが、抽象化のあり方を批判的に考えていくためです。
 多くの具体から抽象は導かれます。
 一人ひとりの生徒は違います。固有の存在であり、名前を持ち、記憶を有し、それぞれの空間を占めて生きています。しかし、一人ひとりをまとめる言葉も必要です。「みんな」とか「この学校の生徒」とかいろいろな言い方はできるでしょう。でも、「みんなは最近元気いいよね」と言っても、例外の生徒もいるでしょう。抽象化は時に例外を排除します。
 生徒の例をあげましたが、これをもっと広げていくと、個人→このクラスの生徒→この学校の生徒→この地域の人→この都道府県の人→日本人→アジア人→地球人などとなるでしょうが、たとえば「日本」や「日本人」というまとめ方が時に問題となることもあります。
 他にも「男/女」、「大人/子ども」というまとめ方も、今は「/」の部分が問われることが多い。この「/」が一体何なのか、これを説明していくことが多いのが説明文や評論文です。この世界の分節のあり方を問題にするといってもよいでしょう。

 
 他には、何かと何かを結びつけていく力を育成することです。ある問題領域の文章を読んだ後、その文章の内容だけに終始するのではなく、この世界で起きている何かと同じ構造を持っているのではないか、問題の根は同じなのではないか、そのようにつなげていく力です。おそらく、知性とはこうした力の一つでしょう。一つの具体を見て、それを別の何かと結びつけていく力。
 問題は点ではなく領域です。一つの問題は多くの別の問題と結びついているのが常です。一つの問題だけを解決してもなかなか改善ができないことが多いのは、問題を点として捉えているからで、もっと幅広い問題領域にまで達することができていないからだと思います。世界は複雑系ですから、単純な思考や方法が通用することは少ない。したがって、市民の力として、多くの複雑な問題を捉え、ほぐしていくことが求められると思います。


 現実としてはこうしたところまで授業の目標が至らずに、読解読解ということになることも多い。また抽象的な語彙どころか具体的な語彙、社会生活で必要な語彙を学習することもあります。こうしたことは常に授業の中で必要ですし、知識よりも思考という考えはむしろ知性を低下させます。
 こうした授業を通じて、この世界とは何か、この世界は何によってどのように規定されて自分たちが生きているのか、どのような問題があるのか等を考える力と考えようとする態度を育成することが、説明文や評論文を学ぶ意味なのだと私は考えています。

国語科教育は何を目指そうとしているのか(1)なぜ学校で「国語」を学ぶのか

 国語科教育については様々な考え方が存在していますし、現行の(あるいはこれまでの)国語科教育についての意見や批判は数多くあります。その中には的外れなものがあったり誤解のあったりするものも多いですが、まっとうな批判もあります。このあたりは一度自分の中でも整理をしないといけないなと思っています。いずれは書籍の形にする予定なのですが、その下書きのようなものとしてまとめておきます。


 国語科教育は基本的に日本語を母語とした子を対象としています。一方、日本語教育は日本語を外国語とする子、あるいは日本に住みながらも日本語が母語として定まらない子等、さまざまな状況におかれた子を対象とします。教える側の知識や理解も異なるため、私は日本語教育の世界では授業はできません。ゆくゆくは国語と日本語という枠を外していくことになるかもしれませんが、ならないかもしれません。
 なお、今の日本の学校では後者のケースの子は、日本語を母語とする児童・生徒が通う学校に行くこともあり、そこではしばしば授業内容を理解できない、日本語を使ってコミュニケーションがとれない等の理由により、孤立化、学力が身につかない等の不幸なことが起きています。一部の地域では授業中に支援員を用意していたり、学校外で日本語だけではなく日本文化、各教科内容等の支援を行っているところもありますが、全国的なものではありません。
 これについては速やかな対策を講じる必要があります。話されている言葉が分からず、そのために友達ができずに孤立化していく小学生や中学生がいることはたいへん忍びない(逆に子どもは日本で生まれて日本語を母語としているけれど、保護者はそうではないこともあり、保護者への支援もあった方が望ましいと思います)。クラウドファンディングなどの形の支援がありますが、これは各地域、国のレベルで支援をしていくことが求められていると思います。
 また、日本語を母語としていても、学習障害や色覚障害等によって、文字を読めない、書けない、理解できない児童・生徒が一定数いますから、こうした児童・生徒も含めて支援をしていく形も必要だと思います。これは特別な児童・生徒に対する支援ではなく、他の児童・生徒の支援にもつながることがあります。したがって、「一部の児童・生徒を特別扱いをして」という批判は的外れですし、仮に特別扱いをしていたとしても、世の中には配慮が必要な人が数多く存在しているので、自分とは異なる他者を受け入れる、受け入れていく社会を受け入れて、誰もがより参加できる社会を作っていくことが大切のように思います。もっといえば、私たちは今は不自由ではなくても、いずれは年をとったり事故や病気にあったりして、現状の社会では生きづらいことが予測できます。他者のためだけではなく、自分が直面した時に不親切な社会であることはやはり望ましいとは思えないので、こうした社会を少しでもよくしていくことが必要です。

 さて、国語科教育とは別に「国語教育」という言い方もあります。「国語科」は教育課程の中で位置づけられたものであり、学校教育にあるいわゆる「国語」のことを意味しますが、日本語は学校の国語の授業外で行われる教育のことです。たとえば、誰かに「そんな言い方をしてはいけない」とか「こういう言い方があるんだよ」とか、こうしたものは国語教育(母語教育)といえます。ただし、明確に分けられないところもあります。とりあえず便宜的に分けて、ここでは国語科教育について、つまり学校教育で国語を教えること、学ぶことについて言及していきます。

 今の日本で生活していくための日本語能力というのは、個人的には早ければ小学校卒業、遅くとも中学1~2年生あたりで身についているように思います。もちろん、いろいろな児童・生徒がいるので一概にはいえませんが、少なくとも誰かと話をする、読み書きの力は日常生活においてはほぼ十分であるように思います。ただ、児童・生徒の精神的な未熟さはあって(これも含めて日本ご運用能力としてみなすこともできるでしょうが)、すぐに社会に出られるわけではありませんが、単純に日本語能力においてはおおむね達成できているのではないかと思います。人と話したりドラマや映画を見たりした時に知らない言葉があったとしても辞書やネットで調べることはできるでしょう。自力で調べられなくても、誰かに訊くこともできるでしょう。もちろん、これは一つの理想的な形であり、現実は辞書の引き方がわからなかったり、人に訊くにしても要領を得ない形になったりすることもあります。
 以上のことを述べたのは、学校教育での「国語」の授業があることによって日常生活における日本語能力をどのように伸ばしていけるのかを考えるためです。そもそも「国語」の授業っているの?という話です。


 現行の学習指導要領では、中学校と高校の国語科の目標は以下の通りです。

 「国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力を養い言語感覚を豊かにし,国語に対する認識を深め国語を尊重する態度を育てる。」(中学校)

 「国語を適切に表現し的確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力を伸ばし,心情を豊かにし,言語感覚を磨き,言語文化に対する関心を深め,国語を尊重してその向上を図る態度を育てる。」(高校)


 ざっくりといえば、「自分が思ったり考えたことを誤解なく相手に送りとどけ、一方で相手からの言葉も誤解なく受け取り、互いによいコミュニケーションをとれるようになる。また、ものの見方や考え方を獲得、更新していったり、何かを見て何かを感じたり、そしてそれらを細かいレベルで分析していき、より適切な言葉を選ぶような言葉の感覚を磨き、言葉一般について深く考え、古文や漢文などの伝統的な言語文化も享受してそれをより良いものにしていき、それを理解して受け継ぐような態度を身につける」

 こうした目標を達成するために、教科書は作られ、授業は行われます。
 日常生活における日本語能力は一定のレベルはあるのですが、それをさらに伸ばしていくために国語科の授業はあります。日常生活では不便なことはなくても、社会生活で生きるとなればまた違う力も必要となります。
 かつては読み書き能力が一部の階級だけに備わり、そこには文化的な差だけではなく、政治レベルにアクセスできるかどうかも決まっていました。法治国家においては法を読む力が必要となりますし、これが読めなければ市民としての権利も獲得できませんし行使もできません。こうした力がなければ他者の言いなりになる危険性もあるでしょうし、そうした他者の思想を批判していくこともできません。高度な日本語能力は、市民になるための一つの要件です。
 また、一人ではなく複数の他者が混在する教室空間においては、必然的に他者との出会いが待っています。他者の言葉やその考えを聞いて受け取り、それに応答していくことが、社会生活を送るための訓練としてあります。単純に言語的なやりとりだけではなく、他者自体を認めていく、認められていくという他者との関係性を考えていくこともあります。むしろ、他者との関係性を踏まえながら言葉の力は育成されていきます。もちろん、集団生活は苦手な子もいますし、学校には行かないという選択もあります。また、他者といってもそれは人に限らず「本」という形の他者もありうるでしょう。

 私は「他者と向き合い、よりよき社会を作るため」に国語の授業をしています。他者と仲良くなるためではありません。考え方や思想が異なる他者はたくさんいますし、そういう人と議論をしていくことも必要です。そのための力は言語能力が主に担っています(もし、言葉による対話以外を持ち込もうとすれば、それは往々にして暴力という形をとってきたというのが歴史の教訓です)。
 当然これは国語科を越えています。したがって、学校教育全体を通じて育成していく力でもあり態度でもあります。授業外の体育祭や文化祭や部活動の場をも含みます。とはいえ、現実は過酷なものであるのですが、理念としてはこうしたものがあります。

 以下、説明文・評論、小説(詩歌含む)、古文、漢文について、考えてきたことを述べたいと思います。
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