はじめに

 ひょんなことからブログを立ち上げました。
 現役の中学校・高校の国語の教員です。ツイッターもはじめました。「国語科教員」という名前なので、いつでもどうぞ。
 まだ不慣れなのですが、やりたいとおもっていることは以下の3つ。


 ①国語科教育にまつわる話
 →高等学校国語科の授業のアクティブラーニングの実践まとめ(随時更新)

 ②国語(現代文・古文・漢文)の参考書、問題集の分析や評価
 →問題集・参考書のまとめ


 ③大学入試問題や私学適性検査の国語の解答作成
 →今のところ無理っす

 ①についてですが、読者層は同業者やこれから国語の教員になろうとしている大学生を想定しています。意外に語られることがあるようで、実はあまりないようなことなどを話題としてとりあげてみたいとおもいます。

 ②についてですが、インターネットの世界ではさまざまな参考書や問題集への評価がありますが、なんとなく腑に落ちないところもあるので、私的整理の意味合いを込めてやってみたいとおもいます。

 ③についてですが、需要があるわりに解答が作成されていない問題がわりと多く散見されます。特に私学適性検査(毎年8月下旬に大都市で行われる私学の教員になりたい人が受ける試験)の問題文は何度かみてきましたが、なんともいえないものです。これはまた話題にしてみたいとおもいます。


 時には脱線をすることもあるでしょうし、時期的に更新が難しいこともありますが、よろしくお願いいたします。

 コメントなど気軽に書いてみてください。
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「教師の学校」-教員の勉強会

 月に一度、広島駅前の河合塾を会場にして勉強会(「教師の学校」)が行われており、昨年度からちょくちょく参加をするようになりました。大学の教員、予備校・塾、出版業界、小中高の教員が集まって、毎回いろいろな報告やお悩み相談、授業報告など、ざっくばらんに話をしていきます。疑問を共有して、どうすればいいのか、それは決してその場では解決しえないものの、各自が職場に戻っていき考えていける問いを与えられているような気がしています。だいたい毎回の参加者は15名前後です。

 昨日は大学入学共通テストのマークシート問題についての検討をして、そこから出てくる問題についての議論がありました。

「大学入学共通テスト」マークシート式問題のモデル問題例(5.16MB)  (モデル問題例及びモニター調査の結果等

 とはいえ、一つの問題は様々な問題につながっていくので綺麗な議論にはなりませんが、それゆえに面白い勉強会だろうと思います。
 私的整理もこめて、どういうことが話題になったのか、それについてどんな風に感じたのかをざっくりと書いておきます。

 新テストでは文章の後に対話があるが、この限られた場での対話というのは何なのか。

 これは、生徒Aと生徒Bとの対話という感じで、非常に物わかりのよい、違和感もすれ違いも勘違いも見られない綺麗な対話についてです。SNSの会話みたいだという声もありました。このようなやりとりが求められている、育てていく生徒はこのようなことを期待されているとも読めますが、一方でこの対話に至るまでの文章は短いものになりがちです(試験時間という制約もありますし)。
 長い文章の持つ論理みたいなものは(こうなってああなって右往左往しながら最後になんとなくの意見表明っぽいもの)、このようなテストではそもそも不適切というか、素材文の候補としては挙げるのは難しいことでしょう。それでいいのか?という問題はあるでしょう。
 また、その一方で、ここまで丁寧に思考や論理の流れみたいなものを用意しないと、いや用意しておいた方が読みやすいと感じる生徒もいるという話にもなりました。代弁するということです。当然ここには、代弁してもらうという怖さ(○○さんに解説してもらう系の番組の怖さでもある)もあります。このあたりはどのような生徒を日々相手にしているかによって捉え方が異なるように思います。一概に批判もできないように思います。
 「対話」というのはいろんな人の対話論がありますが、平田オリザ氏のいう対話などは基本的に異質なものとのやりとりです。

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)

 歴史的にも対話というのはそのような意味合いが多少なりともこめられています。ただ、教育の現場でいう「対話」はこの意味とは大きく異なっています。それも含めた上で、あらためて対話の意味は考えていきたいところです。

 さて、小論文や記述では点数に直結する要素Aとか要素B、評価規準みたいなものがありますが、「~に言及していたら○点」などいろんな模試や問題集には書かれてあることでしょう。私も採点をする時に、同じように採点をしていきます。
 しかし、昨日話題となったのは、そのような要素以外に「何かいいかも」って感じることがあるよねってことです。
 たとえば、生徒Aと生徒Bがほとんど要素としては同じなのに、なんとなく採点する側は「こっちの方がいいかも」って思ってしまう感覚。それはフィギュアスケートなどの「芸術点」みたいなものではないかってことになりました。教員の完全な主観とも言い切れないこの何かって何なんだろうって話になりました。それが論理なのか、文体なのか、語りの問題なのか。 あるいはそれらすべてを含んだ複合体なのか。文に感じる息づかい、生命力、そういうものなのか。
 研究会のメンバーは各自持ち帰って、これについて良い生徒の記述があったら共有していこうってことになりました。
 
 これはたとえば、「文学的」という評価言みたいなものにも通じるものかなと思います。「文学的」とは都合のいい言葉ですが、何が文学かというのは全くないわけではなくて、しかし明確に定義すると難しいにも関わらず、なんとなく使えてしまう言葉です。
 こういう「何かいいなぁ」って思う感覚そのものも社会文化的なものに起因するのかもという気もしますが、できる限りそれ以外の可能性も考えてみたいところです。「主観の共同性」という言葉も出ていました。

 どうしてこれが問題になったかというと、大学入試の解答例を公表するということに関わっています。どのような解答例を大学が公表していくかはわかりませんが、基本的に批判をされないためには要素Aがあったら○点みたいな形で公表していくことが考えられます。
 しかし、先の「芸術点」みたいなものはなくなっていくのではないか、そしてそれがある種の「文学的素養」なり「教養」なりを形式的に支えていたものであったとしたら(仮定です)、何を公表するか、その仕方も慎重にしないと危ないのではないか。
 そんな危機感があります。
 ここから面白かったのですが、これからは高校の側がどのような解答がほしいかを意見していくことが大切ではないかという声がありました。記述問題でただたんに解答例だけ載せられても使い方に少し困ります。かといって、要素Aがあれば○点だらけなのも、先の危惧をぬぐえません。受験という制度の中で、受験生も高校も大学もよりよいものにしていく、いやこれ以上悪くならないようにしていくためには高校の立場からいろんな提言をしていくのがいいのではないかと。
 私たちはどういう解答例を求めればいいか。
 このあたり石川巧さんの本とも関連するところはあるような気がします。




 他の話題。池田久美子『視写の教育―“からだ”に読み書きさせる』(シリーズ『大学の授業実践』)

 

 大学に勤める池田氏が大学生に視写されていく実践の報告。未読なので今度読んでみます。非常に涙ぐましいものなのだとか。
 なぜこの話になったのかというと、視写することである書き手がどのような論理を、どのような言葉の並びで書いていくかを追認して理解することがあるかもしれない、という話から派生したのでした。「身体」の問題は大切なことのように思います。

 あと、個人的に興味深かったものとして、小学校では教室後ろなどに書写の時間に書いた作品がありますが、これについて「小筆を見ればわかる」という話がありました。これはいろんな意味があると思うのですが、名前がぐちゃぐちゃで個別指導が行き届いていないという問題、またそういうものを平気で展示しているという問題等々、そうだなーと思うことがいくつか。教室を見ればわかるっていうのは最近しみじみ感じるようになりました。

 書くことについていえば、「200字に対して800字を書くように求める」という声があって、これはある一定の量を書かないと出てこないものがあるだろうってことでした。これもあーそうだなーと思うことの一つ。

 最後あたりには大村はまが生徒の作文に対してどのようなコメントをしているかってことが話題になりました。これも興味深い。

 もうこれくらいでやめますが、昨日の勉強会はいつもよりもいろいろと考えさせられることが多く(関心のある話題が多かった)、課金なしでレアキャラ5体ゲットした気持ちです。
 私は学会にはあまり行かない人間なのですが、こうした現場の教員、そしていろんな分野・業界の人たちと話をしていく勉強会にはいくつか参加しています。それぞれの人が持っている知を共有していければいいなと思います。本当にみなさん、いろんなことを考えていて面白いですね。

 というわけで、私が持っている知を言語化したものが刊行されます。こちらもよろしくお願いします。

 『国語の授業の作り方 はじめての授業マニュアル』(文学通信)

ニコニコ超会議、質疑応答

 ニコニコ超会議というのがあって、「みんなで翻刻」というのがありました。
 その中で最後に質疑応答があって、これは大事な議論だろうと思うので参考までに文字おこししておきました。
 誤字脱字等あると思いますが、見つけたら教えてください。
 超みんなで翻刻してみた@ニコニコ超会議2018[DAY2] 【5:17:38~5:39:07の間】

*「エバイショウ」をスルーしてしまってました。「絵俳書」に訂正しました。コメントくださった方、ありがとうございます。

質問者
 クーラとか「みんなで翻刻」っていうそのコミュニティーを作って、江戸時代の、今までだったら発掘されてなかったような文献を翻刻して知識を獲得していくっていうのは私はすごく良いことだと思うんですけど、同時に獲得した後、現代に知識をどう還元していくのかっていうのを、今の時点でこういう方法でやっていこうとかいうことがお考えでしたらお聞きしたいと思います。

飯倉先生
 今のところそういう展望は具体的に考えているわけではないんですけど、その還元というのは大切なことで、かりに翻刻したとしてもそれはまだいわゆる古文であって、それを今度は現代語訳、あるいは英訳しないとちゃんと現代の人には通じないという、そういうところがありますよね。おそらく「みんなで翻刻」の次にくるのは、「みんなで現代語訳」、「みんなで英訳」、「みんなでフランス語訳」、そういったところにいくのかなという風には思っていますけれども、やっぱりその中でも僕たちが特に紹介したいもの、そういったものがあると思うんです、それは人によって違いますけれどもど、そういったものをピックアップして、それを強く強調して、なんかのサイトを作ってやっていくっていうことが今ちょっと思いつきですけど、考えられるかなと思います。

キャンベル先生
 すごく良い質問です。橋渡しが必要だと思うんですね。理系に科学技術インタープリターという資格といいますかプログラムがあるんですね。文系も理系も学生が、たとえば、何か自分の勉強をしながら、ある学科に所属をしながら、そこで学んでいる、特に理系の知見を一般社会にどういう風に、まさに共有をするのか、あるいは具体的な立案をして、いろんな人々の生活に役立てるのか、あるいはメディアの中でそれを展開していくのかっていうことを同時に学ぶということですね。文系にないんです。日本の文系にはそういう読めばわかるという戦後ずっと高等教育の中で読まない人は読まないということがあるんだけども、実際にみんな今日翻刻をしてくれててわかるように、けっこうハードルがあるんですね。今飯倉さんがおっしゃったように、翻刻をしたとして、じゃあ誰が句読点を入れるのか、えーこれ引用括弧がないから読みづらいとか、現代語訳にしないとわからないということはいっぱいあるので、同時にできれば同時にそれをインタープリットをしていく、つまり解釈をしていくってことを、まず日本の古典を研究している若い研究者に一つの職能としてそういったものを広めていくことが、それが認知されることがとっても大切だと思うんですね。
 そういう意味で、これ小さな試みですけど、昨年から国文学研究資料館ではそういう古典インタープリターという肩書きを作って、若い助教ですね、若い研究者に、非常に専門的な江戸時代の文学の専門家、女性の若い研究者ですが、彼女の研究をどういう風にそれを一般に伝えていくのか、いろんな企画立案をしたり、展示を作ったり、アプリを作ったり、どうやってつなげていくかということを仕事としてやってもらうようにしているんですね。
 もう一つは先ほど還元をするという話、いろんな還元の仕方があると思うんですが、一つは私たちが今やろうとしていることは、古典、古典文学にそもそも関心はあるけれども、専門的な知識がない、他の分野のプロフェッショナルが実際にたとえば国文学研究資料館に来て、触れながら、でそこに研究者たちが一緒にナビゲーションをして、その人がその人の分野の中で使えるように、資源化していくという試みをしてるんですね。今アーティストインレジデンス、招聘芸術家、三人を招いて、それぞれの分野で一人はアニメーション作家、もう一人は小説家、もう一人は舞台芸術家ですね、その人たちに毎月来てワークショップをしながら、その人たちの関心に応えるように、いろんなまだ翻刻していない資料を見せて、翻字をしながら現代語訳しながら、その人の新しい表現のきっかけにするということをしているんですね。今の日本の学会の中では、これから就職をする、たとえば教職にいくとすると、そういうことができるということがとても、実は今の日本の大学の中で求められている職能スキルだと思うんですが、あんまりそれはどういうことなのか、なにがどういう風にできればそうなるのか、はっきりとルールが決まっていないんですね。なので「みんなで翻刻」が一つの大きなきっかけとなって気流を起こして、特に若い研究者たちの育成ですね、これからの変わる日本のその研究、あるいは教育の現場の中で橋渡しができるようなことにしていくことは、それがすごく僕はこのプロジェクトの一つの大事なポテンシャルじゃないかと思ってます。

質問者
 やっぱり文学だと文学で閉じてしまっていたりとか、地理だと地理で閉じてしまっていたりとかして同じ時代を点検しているんですけど、江戸時代の生活をなんとなく立ち上がるように再現するっていう研究がこれまでされてきていなかったのかなっていうのが自分が大学にいて思ってて、こういうネットの営みでいろんな分野の江戸時代の研究をしている人とかくずし字が読める人が集まってくるのはすごくちょっと面白いなって思いました。


質問
 古典を読める人は一握りでよいという風潮がある中で、なお古典知を継承していく意義をどのようにお考えですか

飯倉先生 
 まああの、古典知っていうのは単に読めるっていうだけの問題ではないと思いますね。古典の中には先ほどのキャンベル先生が紹介してくれた本の中にもありますけれど、我々の現代では完全に出てこない発想とか考え方が埋もれていて、そういった考え方っていうのは、いくら今テクノロジーが進展してどんな便利なことがあっても、何か人間がそれだけで本当に幸せになっているかというと、必ずしも、便利であるということが幸せとは通じませんよね。しかし江戸時代の人たちって案外全然便利ではない時代には住んでいるんだけれども、結構楽しそうなところがあって、その楽しそうなところっていったいどこから来ているんだろう、実はそこに古典知というものがあるんですね。だから、くずし字が読めるというスキルとは別に くずし字を読むことによって広がる大きな世界がある。それを古典知って呼ぶんじゃないかなと思う。で、それはどんどん広がっていっていいんじゃないかと思っています。

キャンベル先生
 古典知はすごく良い言葉だと思うんですね、古典知っていうのは今先ほどの質問、女性の学生がおっしゃったように、文学っていうのは一つの囲いの中にいては古典知っていう発想が出てこないと思うんですね。今の文学とか歴史とか美学、美術というのはせいぜい120~130年くらい前に実は輸入され、編成、再編成された日本独自、だけど近代の分類、世界観なんですね。この書物、、私たちが持っている書物とかが書かれた時代、消費された時代というのは、まったく違う分類法の中で生きているわけですね。文学というのは書かれたものが書かれていて人に何かを伝える、喜怒哀楽とか情操的なものも含めて、しかしそれとは限らない、医療であったり、植物学であったり、いろんなそのあるいは建造物、建築であったり、そういうものがすべて文学なんですね。つまり、文明の学び、ということとしてそもそもあったことを考えると、今のインターネット時代の中で「ささる」と思います。ささるというか、ものすごく納得すると 感覚的に。それを一度こすって開いて、みんなが今やってるように、継続的に作業してもらおう、目を慣らしてもらおうということが必要ですけれども、たぶんすぐに感覚的に気づくことは、文学っていわゆる小説とか詩歌とか、今でいう本屋さんに行くと文学のコーナーがあって、そこにあるものじゃないものが文学、まさに古典知っていうことなんですね。飯倉さんがね、なんかよくわからないけど、不便だけど楽しそうにしているよねっていうのが、本当にそのとおりで、研究者が30年も40年もやってて、結局そういうことなのかなって困るんだけど、もっと論理的にやっぱり物事を考えないといけないんだけど、今日本を持ってもう一冊あるんだけど、こういう挿絵、ちょっと持ってくださいますか、ちょっとできたら両手で、広げて見えるようにしていただけると、この本はですね、梅吉野といって、今の大分県、豊後の国に吉野という村があって、江戸時代末期に百年以上前ですけど有名な梅の木が一本あるんですね。で、それは銘木ですね。それは有名な木だけど、まだ寒いとき、春に先駆けて咲くのが梅なんだけれども、咲くと周りの人たちが誰も呼びかけるともなく集まって、酒盛りをするわけですね。これが実はコミュニティーの小さな、歩いている範囲の豊後の国、今の大分の 本当に田舎、大分市の郊外になるんですけど、そこに集まって、幕末の一番大変な時に、こうやって集まって、木が咲いた時のためだけに集まって酒盛りをしているんですね。
 で、ちょっと寄ってもらいたいんですけど、人がそこにたくさんいるんですね、ここに。その人たちって一人ひとり名前が書いてあるんです。実名で書いてるんですね。で、別にみんなが侍とかみんなが農家とかってことではなくて、年々そこになんとなく集まるとそこにいる人たち、その人たちの名前が書いてあるんですね。その前後に、ちょっとページをめくってもらえるとわかるんだけど、今でいう俳句、俳諧が全部書かれている、(文字があるところをめくってください)、文字がずっと書かれているけれども、この文字っていうのは17文字はみんなそこに集まって実名で小さな肖像が描かれている人たちの作品なんですね。さて、この作品は文学作品でしょうか。その当時の記録、ノンフィクションとしての記録でしょうか、それとも先ほどの綺麗な絵が描かれているから、美術史のつまり絵本、綺麗な絵本として、美術史の人が対象とすべきものでしょうか、というクイズをここでできるんですけど、意味ないよね。それはただこれが江戸時代でいう絵俳書、絵が描かれていて、俳句をたくさん書かれたもので、実在の人たちが身分を越えて、性差を越えて、男女を、女性も男性も入っているんですが、コミュニティーの一つの記録なんですね。そういったものをどういう風に私たちが回収するか、追体験するかによって、何をこう汲み取って、どういう風にそれを私たちの力にできるかということにかかると思うんですね。今飯倉さんがおっしゃったように、あんまり文学、文学って何なのかっていうのを考えずに古地震の記録、日記であったり村の記録であったり、さまざまな実は歴史史料、記録史料として考えられるものはものによっては当時としては文学として読まれていたわけですね。そういうことがフレッシュというか、我々のパラダイムをちょっと塗り替える力を持つことかなと思いますね。



質問者
 先ほどの質問とちょっと被ってしまったんですけど、世の中には難しい古文はエリートに任せればいいと、一般庶民はエリートが現代語に訳したものだけを読めばいいって言っている人が多いです。それも国語学者みたいな人すらそういうことを言っている人が多い。金田一京助先生とか。そんな感じだったと思います。で、その一方でエリートも一般庶民も古文の基礎的な知識も共有できればいいっていう意見もあるとおもいますけど、私はどちらかというとそちらの方寄りの考え方なんですけど、先生方はそこらへんどのような意見、考えでしょうか。

飯倉先生
 まああの、江戸時代と明治時代の所はかなり切れているとはいえ、やっぱり現代の我々が使っている言葉の中にはやはり古文の力っていうか、やはりそれを知っていればコミュニケーション上すごく有意味といいますか、コミュニケーション上すごくやっぱりそれが意味を持ってくるわけなんですよね。それはもちろん強制的に教えて嫌がられてもしょうがないんですけれども、古文の知識、基礎的な知識があった方がよりコミュニケーションが豊かになることだけは確かだと思います。だけども、それを強制するのかどうか、これを現代語訳に全部してしまうとそこは意味を持たなくなると思いますね。簡単に。


キャンベル先生

 そもそもの次元に今の質問に引き戻してしまうと、人々はなんで本を読むのかっていうことにいきつくと思うんですね。一つは自分が経験できないこと、自分の経験から語り得ないことをしたり感じたりする、つまり思いやるとか共感をするとか、まあ同情という言い方を英語でempathyということばを使いますけれども、そういうことの場数を増やすことによって、今コミュニケーションの話もありましたけども、もちろんコミュニケーションも大事だし、そもそもそれを感知できるかどうか、人々の喜びであったり、いたみであったり、自分が今取り巻かれているその状況ということを客観的に判断できるかどうかっていうことは自分の日常的な経験からだけでは不十分なんですね。

質問者
 古文は専門家だけが知ればいいっていう人は、言葉っていうのはコミュニケーションの道具なんだから、現代人同士のコミュニケーションができればそれで十分だって言っている人が多いです。

キャンベル先生
 ただね、僕が言っているのは、共感をするとか、かつては江戸時代は「想像」という漢字を書いて思いやり、おもいやる、思いをはせるっていうんですよね。それは自分の立っている地点から半径がこう決められている、限られているので、読むこと、つまりこれが100年前、200年前の人たちが全然違う状況ではあるけれど、彼ら彼女らの証言を読むことによって自分がとうてい追体験できない、追体験ではなくて体験できないことを知るわけですね。僕は今の質問につなげるとすると、それはエリートとかある一部の人たちにだけ任せるというのはまったくナンセンスだと思うんですね。それは強制的にではなくて、折々にいろんな自分の人生の様々なステージの中で、必要性、偶然、僥倖、いろんなことで出会った他の他者のことばに触れた時に、どれぐらい共振できるか、それによって自分はやっぱり人間として豊かな生活、安全安心できる、市民生活が送れる、基本的なことだと思うんですね、で、それは一つのチャンネル、一つのソースが僕は古典知だって考えるんですね。
 そうするとそれはじゃあ、現代語訳で書かれていれば、その範囲の中でみんながそれを読んで、それに足りる、安息すべきだということは、僕はものすごく違う、危ない発想だって思うんですね。っていうのは、現代語訳をされたものはそのエリートの人たちがたかが70年80年の間に、いろんな偶然や自分たちの思惑の産物として選び、翻訳したものなんですね。決して平均的なものではないんです。司馬遼太郎の小説を僕は大好きだけど、司馬さんはほとんど活字でしか幕末の歴史を書いてないんですね。そうするとじゃあ司馬遼太郎の司馬史観っていうことがあるだけど、それを成り立たせているものはなにかというと、司馬遼太郎と同時代、前の世代の人たちがたまたま選び取った手紙や記録や小説、それを現代の人が読めるようにしている、そのメニューの中からすべての彼の小説が書かれているわけですね。まあそれ素晴らしい小説だけれど、じゃあそれでいいのか、それだけでいいのか、もっとやっぱり機会をみんなでもつ、もたせるということが重要じゃないかなと思いますね。

初校初校

 本の初校をいただきました。しばらくは校正といきたいところですが、学校の方ではまだまだ忙しさが終わらない。というか、来週からは後期試験まではいろいろと指導もあります。年度末なので指導要録やらテスト作りやら、まぁいろいろと。


 一昨年の秋、教育実習中に「これはまずい」と思って、教育実習生用の授業マニュアルのようなものがないといけないと感じました。
 大学で学んだことと、実際の授業作りとを結びつけていくことは、従来は実習中、そして実際に学校に勤務することによって身についていくともいえます。
 しかし、近年では大学も忙しいし、学生もバタバタとしていて、できる限り授業者の暗黙知は言語化される必要があると思いました。
 理論と実践とを結びつけていく取り組みはさまざまな場所で試みられていますが、よくをいえばもう少し近づけていくことが望ましいと思います。授業案に書かれた言葉の行間を明らかにしていくことを第一の目的としています。
 国語教育だけではなく、その他の領域の知見も踏まえていきたいですし、なるべく中高の授業ってこういうことをやっているんですよというメッセージを発することで、他分野の人たちからも声をかけやすい状況を作りたいというのが第二の目的です。
 
 原稿を書きながら、これまで観察してきた授業や同僚の学びが思った以上に自分の中には刻み込まれているのだなと感じました。もはや自分の考えなのか、いつの間にかそうした他者の振るまいを身体化してしまっていたのか、正直わからないところもあるなぁと思いました。
 なんとか最後まで走り抜けたいと思います。

作者の意図、出題者の意図について―2018年度センター試験国語の講評

 今年も読んでみました。具体的な問いの解法は役に立たないと思うので、問題文の内容やテーマ、どんな問題領域とつながっているか、それらについて私見を交えながらまとめておきたいと思います。
 「作者の意図」、「出題者の意図」の問題を軸としながらまとめてみたいと思います(現代文だけ)。


 なお、難易度は単純に過去の年度と比較はできませんが、問題文は読みやすいものが多い。ただし、表現の問題などで本文を丁寧に確認しながらじゃないと正確に解けないものもあって時間が使われるというのは例年のこと。
 いずれにせよ、奇をてらったものや難問は見当たらないので、平均点は120点はいかないまでも、110点台前半(111~116)くらいかな。去年よりは確実に上がると思いました。去年は106点だったので110点はあると思います。が、こればっかりは集計しないとわからないものです。


 参考までに今年の出典は以下の通りです。

 評論:有元典文・岡部大介『デザインド・リアリティ-集合的達成の心理学』
 小説:井上荒野「キュウリいろいろ」
 古文:本居宣長『石上私淑言』
 漢文:李燾『続資治通鑑長編』


 さて、国語科教育の世界や国語の試験では「意図」の問題がしばしば話題となります。
 「作者の意図」がその代表例です。
 作者は作品の創造主であり、その作品の意味するところは作者(だけ)は知っており、読者はまだ到達できていないその作者の意図を作品を読解することで少しでも到達していこうとしてきました。文学研究の世界ではしばしば作家論という研究方法や視点として紹介されます。
 また、この構図は作者=神、作品=聖書、読者=信者という関係にも似ており、この類似からは作品を読むことがある種の権力構造の中にあることを示唆しています。作者=神には逆らうことはできません。

 しかし、よくよく考えてみると作品の意味は作者も知らないところもあるわけです。人には無意識があるかもしれないし、言語は自分のものではなく他者の言葉(の引用)かもしれないし、その言葉の発話はある文化的社会的な構造の中で意味が生成されるかもしれないので、自分が考えた意図があったとしても読者に伝わる保証はありません。またその「意図」が作者独自のものかどうか、他者から影響を受けた意図ではないか等の問題もあるでしょう。
 逆に、生身の作者が確かに生み出した作品があったとしても、その意味を作者以上に読者が紡ぎ出すこともあるでしょう。注釈行為も同人誌もその流れにあるともいえるでしょう。作品は読者に開かれたテキストです。そして作者は一人の読者であり、登場人物かもしれません(読者よりも上にいるとも言い切れないという点で)。
 
 そんなわけで、いろいろな事情を踏まえ「作者の意図」という言葉をなかなか使いづらくなってきました。とはいっても、これは「作者の考え」は依然として問われていますし、「表現の狙い」という言い方もされます。そして妥当な答えが導き出されることも多いので全否定することもできません。また、小説の場合は使いづらくなってきたとはいえ、何かを創作したりスピーチした時には「意図」は明確にするというか、求められることは多い。このあたりはフィクションとノンフィクションという区分をどの程度曖昧にするかによって考え方も異なるように思います。

 一般に作家作品論→テクスト論という流れがありますが、そんな簡単な問題でもないし乗り越えられているかというとそうとも言い切れません。
 興味のある方は、たとえば次の本を読まれるとよいでしょう。中村三春氏の「作家論」の項目を参照。

■日本近代文学会『ハンドブック 日本近代文学研究の方法』(ひつじ書房、 2016年)
 

 →ひつじ書房のHP(目次などがあります)


 本文の内容からは「作者の意図」を越えた読み取りが行われることもあり、テキストの言葉や言葉のつながり、構造から捉えられる読解していくのが学校で行う読解行為(読書行為)です。もちろん、「言葉はないけれど、たぶんこういう意味もある」ということもありますし、こうした読みを取り入れることによって教室空間が変わっていくこともあります。もちろんここには授業者への忖度もあるでしょう(あったでしょう)。
 

 さて、「作者の意図」は見えづらくなりながらも、国語の試験においては「出題者の意図」と言われるようになりました。単純に本文の内容(作者の意図を読解するのではなくテキストの言葉から読み取れる妥当な読みや解釈)を答えるのではなく、出題者が何を求めているか、それに合った解答をせよ、というわけです。
 このような文脈での「出題者の意図」という言葉は、わりと冷ややかに見られているように思います。結局、また忖度かと。
 しかし、単なる批判で終わるのは望ましいことではありません。

 試験というのは、出題者が「これって何? 説明して」と訊いてきて、受験生がそれに対してテキストのことばを根拠として「これは○○のことです」と答える一つのコミュニケーションが成立しているかどうかが判断される場です。訊いてもないことをべらべらとしゃべるのはコミュニケーションではありません。書いてあることを無視して一方的にしゃべるのは好ましいことではありません。選抜(評価)する側、選抜(評価)される側という上下関係があるから、批判されるような気もするのですが、こうした場というか、こうした力は否定されるものではありませんし、むしろこの力がなければ試験どころか社会生活も難しい。
 もちろん、冗長なコミュニケーションは必要である、それは当然だという意見もあります(たとえば平田オリザ氏)。
 コミュニケーションといってもいろいろな状況があるので、試験においては厳密に、あちらの意図を外さずに、こちらの意図を意味が多義的にならないように明確に答えていくことが必要です。本文の内容はわかっていても試験で点数がとれない場合、設問をきちんと読めているか、何が問われているのかを理解できているか、このあたりに理由がありそうです。


 以上が長い長い前置きです。

 「作者の意図」にせよ「出題者の意図」にせよ、テキスト内部の問題になってしまうのですが、そもそもなぜ出題者はこのようなテキストを素材文として出題したか、このこともかなり重要だと思います。
 なぜこの素材文なのかについては、第一に受験生の力を測るための適切な問いが作れるかどうかだろうと思います。明らかに難しいもの、易しいものでは受験生の力を適切に測れているかは怪しいし(もちろん問いのレベルによって易しい文章でも難しくなるし逆もある)、受験生の力の弁別も必要です。それらの条件を満たした素材文であるかはたぶん考慮されているはずです。

 そしてもう一つは「この文章を読んでほしい」、「この文章が問いかける問題について考えてほしい」という出題者からのメッセージです。

 評論文は、現実=世界に人為的に手を加える、「デザイン」することによってその場にたたずむ人たちに別の現実=世界があること、別の行為の可能性があることを示唆している文章です。
 本文でも「アフォーダンス」という用語が出てきました。これについてはググってもらえればいくらでも例があると思うのですが、主体の認知は純粋にその個人内で起きることではなく、環境との相互作用によるものであるということです。また、環境によって自分が自然と何か促されていくこととでも言いましょうか。
 センター試験はマーク式ですが、記述式の場合とでは問題文に向き合う態度や行動も変わっていきます。様々な環境、あるいは指示、言動によって、世界が開かれていくわけです。そして何かに導かれていくこともあるわけです。教室に本を置くことも、生徒たちが読書の世界に足を踏み入れる、新しい物語世界に参加する可能性を生み出します。

 さて、この評論文を読んだ時、最初に講義の例が出たからというのもありますが、これは受験生の力を測るとともに、学校教育に関わる人、あるいは教育に関わる人に向けられたメッセージもあるなと思いました。近年では学びのデザインが更新されはじめています。たとえば一方的に授業者が話す講義式の授業も、生徒を刺激していくこともありえますが、生徒の環境をデザインするのはそれだけでは不十分です。生徒同士の相互作用もあるでしょうし、教材の工夫(出会わせ方、訳、ワークシート、強調)もあるでしょうし、ICTなどもあるでしょう。
 学びの環境をどのように変えていくのか、変えていけばいいのか、このことを出題者としては考えてほしいというメッセージだと受け取りました。もちろん出題者は一人ではないでしょうし、そのような意図があったかどうかは確認のしようがありません。ただ、昨今の教育の文脈を踏まえると、そのような狙い(願い)として受け止めることもできます。

 また、小説は、自分が生きてきた人生の中に、自分の記憶の中に確かに存在する「他者」の痕跡を、様々な「他者」によってデザインされて発見した物語だともいえます。これは評論文の内容とも関わっています(少なくともそう読める可能性が開かれている)。
 この小説も受験生の力を測るのに適切かどうかという問題以外にも、前述のメッセージとして読めるわけです。他者によって開かれていく自己の問題は大切なものですし、人生のどこかで考えてほしい問題の一つです。
 多少道徳くさい場合もありますが、すべてのテキストにはそうしたメッセージ(声)があるはずですし、一つだけとも限りません。

 こうした「出題者の意図」というのは、「出題者の願い」です(正確には「出題者はこのようなメッセージを送っているんだな」と読者が触発されて読み取ったものです)。
 そして、こうした「願い」は、たとえば石原千秋氏が「国語は道徳だ」と言っている問題にもつながってきて、教科書の作品や教材編成による意味の連関、教育言説、それらを支えている教育制度等々、これらに無自覚、無批判のままではある種の価値観に生徒たちだけではなく教員自身も巻き込まれていき、一定の方向にアフォードされていくともいえます。そうした環境に介入することによって、また別の学びの可能性を生み出すことができるかもしれません。すでに存在している文化的社会的な世界にどのような形で介入をしていくか、このことが問われているのでしょう。

 多くは18歳の受験生が読み、中等教育を卒業していく年代の子たちに向けたものが小説だとしたら、そうした子たちと関わってきた、関わっている我々に向けられたものがこの評論文なのだと受け止めたいところです。
 こんな形で「出題者の意図」を考えていくことも時にはいいでしょう。
 誰が誰に何を語ろうとしているか、なぜ語ろうとしたのか、どんな言葉でどんな例で語ろうとしたのか、それに対してどう応答していけばいいのか。そんなことをあらためて考えさせられたセンター試験でした。今年は良かったと思います。
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