はじめに

 ひょんなことからブログを立ち上げました。
 現役の中学校・高校の国語の教員です。ツイッターもはじめました。「国語科教員」という名前なので、いつでもどうぞ。
 まだ不慣れなのですが、やりたいとおもっていることは以下の3つ。


 ①国語科教育にまつわる話
 →高等学校国語科の授業のアクティブラーニングの実践まとめ(随時更新)

 ②国語(現代文・古文・漢文)の参考書、問題集の分析や評価
 →問題集・参考書のまとめ


 ③大学入試問題や私学適性検査の国語の解答作成
 →今のところ無理っす

 ①についてですが、読者層は同業者やこれから国語の教員になろうとしている大学生を想定しています。意外に語られることがあるようで、実はあまりないようなことなどを話題としてとりあげてみたいとおもいます。

 ②についてですが、インターネットの世界ではさまざまな参考書や問題集への評価がありますが、なんとなく腑に落ちないところもあるので、私的整理の意味合いを込めてやってみたいとおもいます。

 ③についてですが、需要があるわりに解答が作成されていない問題がわりと多く散見されます。特に私学適性検査(毎年8月下旬に大都市で行われる私学の教員になりたい人が受ける試験)の問題文は何度かみてきましたが、なんともいえないものです。これはまた話題にしてみたいとおもいます。


 時には脱線をすることもあるでしょうし、時期的に更新が難しいこともありますが、よろしくお願いいたします。

 コメントなど気軽に書いてみてください。
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古典教育の意義(続)

 昨日書いた記事(古典教育の意義)について、様々な反応がありました。→はてなブックマーク

 昨日は古典教育の意義として以下の4点について述べました。
 
 ①伝統文化を継承して未来の世代に託す
 ②古典と関わる職業へのきっかけ作り
 ③古典世界のものの見方・考え方を知ることで自己の世界を広げていく
 ④教材の一つとして
 
 ①②については、社会にとって古典、③④は生徒にとっての古典という意味でまとめました。
 前者については、今引き継いで学んでおかないと後世の人が古典を学ぶ機会がないかもしれないこと、そして古典の授業がなければそもそも古典関係に進むかもしれない職業選択の選択肢が生まれないかもしれないことについて述べました。
 多くのコメントにもあるのですが、これは別段古典に限った話ではなく、音楽や芸術、芸能についても言えることです(英語や数学、理科についても言えるかもしれません)。社会が何を残そうとするか、これは議論されるべきことです。本当にそれは必要なことなのか、必要だとすればどのくらいの時間が必要なのか、そして必要とはどのような意味で必要と言えるのか、短期的なのか中期的なのか長期的なのか、そのような議論は必要だと思います。
 初等中等教育においては、時間数は限られています。古典よりも、生活に根付いた、それこそ中学校を卒業してから働く人も一定数いる以上、そのような人たちが社会で生きていくための力を育成するために、たとえばリテラシー、プログラミングの知識、礼儀作法、法律、税制等、多くのことがあります。欲張りたい気持ちはあるものの、時間数だけではなく様々な困難を抱えている生徒たちに一律に教えるべきことなのかどうか、一律に教えないとすれば何をどのようなレベルに設定していき、その量をどのように設定するのか、それに関わる教科書や教材は誰が用意するのか、そしてそれを教える教員の授業力はどのようにして育成していけばいいのか、多くの課題が出てきます。
 古典を現状維持で残すとすれば、古典との出会いによっていろんな道が拓ける生徒が出てくる一方で、古典の時間があるために学ぶことができなかったことと出会えずにその子が出会っていたら進んだであろう道を閉ざす危険性はあると思います。
 何を残し、何を削り、何を増やしていくか、この問題を抜きには語ることができません。ただ学習指導要領では古典はなくすことはないと思います。「伝統・文化」は固有の価値があり、それは疑うこともなく「学ぶものである」というわけです。これについては、繰り返しになりますが、本当にそうなのかと問うことは必要だと思います(でも、誰が?)。

 古典教育擁護、古典教育不要、いずれでもない、それぞれの立場があります。

 擁護する人は、①実際に読んで面白かった、②現代語の成り立ちがわかる、③昔の人々の考え方がわかる、④古典を学ぶことが歴史等に関連するから必要(歴史学以外にも明治時代あたりの文章を読む力)、⑤リベラルアーツとして、⑥「日本人」としての民族性と継続性等々あるわけですが、擁護する側は生徒だった時か卒業してからある程度年齢を重ねて改めて古典に触れることでその人にとっての古典の意味が生み出されていくことがあるように思います。

 逆に古典教育不要の立場の人は、前述のように①もっと教えるべきことがある、②面白くない、③進路に関係がない、④古典は好きだが授業(テスト・入試)は苦痛等々、その人にとって全く意味がないどころか害悪ですらある、そのような経験や記憶がある人が多いように思います。

 いずれでもない人は、①義務教育課程ではなく高校になってから選択して学べばよい、②古典教育は不要だが古典自体は必要、③自分は面白かったが全体が学ぶ意味はないかもしれない、④社会全体として学んだ方がいいと思うけど自分はいやだ等々、一定の擁護と不要の考えがあるように思います。

 擁護している人は、私のような職業にとってはありがたい存在ですが、その立場から古典不要論をいたずらに批判することはあまり建設的ではないように思います。古典不要論にも一定の理由がありますし、共有すべき問題もあります。排除する、議論の余地なし、となってしまい、そこで対話は閉ざされてしまいます。
 とはいえ、すべての人が納得できる問題ではありません。
 古典が本当に必要なのか、それに替わるものを教えた方がいいのではないか、こうした問いは役に立つ、実益に関わる問いであり、役に立つこと、実益はその個人にとっては幸福の一つの指標でもあります。未来の世代のことなど気にする必要もなく、機会が奪われてしまったとしても自分の生活の方が大切だというのは一つの見解ですし、説得力のあるものですし、それに対して批判をすることは容易ではありません。

 私はこの対立は乗り越えられるかどうかは正直怪しいと思っています。私個人としては古典は必要だという立場をとっているのですが、今の立場からできることは古典不要論の立場の人があげている理由の②面白くない、④古典は好きだが授業(テスト・入試)は苦痛、この二つを授業を通じて改善していくことです。
 面白くないものを面白く、授業も古典文法だけに終始して読解をしていくのではなくその苦労の末に味わえるかもしれない何かを授業の中で生徒たちが捉え、「なんかいいかも」と思う体験を積み重ねていくしかないのでは、と思います。このためには、従来の古典の授業は改善されなければなりませんし、その教材の選定も見直されなくてはいけません。「伝統」だからといって、生徒の心に響かないような教材を、シラバスにあるからといってそれを教えていくだけでは、どうしても古典嫌いを生み出していくだけです。すべての人が「古典いいね!」となるのは考えにくく、古典嫌いは生まれ続けることは予測されます。これについては今のところ、授業改善で一人でも多くの生徒を、ということしか言えません。

 授業者以外にできることは、漫画やアニメなどの他のメディアを通じて、古典と出会い、面白さを感じることや、研究者が一般的には知られていない、勘違いしていたことなどを専門的な立場からわかりやすく説明することなどがあるでしょう。学校だけではなく、様々な領域で古典と接していき、そこで「いいな」と思えるようなことをちょっとずつ増やしていくことが今のところ有効であるように思います。

 また、古典には固有の価値がある、という考えは多少改善されるべきであって、古典の価値はその読者が生み出していくものです。もちろん古典自体にある一定の価値や歴史的な重みはあるでしょうが、最終的にはその人の中で「出来事としての古典」が生じるかどうかではないかと思います。
 国民国家論の文脈において、古典は「日本」や「日本人」という意識を高めるために「創造」された、という議論もあります。古典教育論を擁護する側も、それを批判する側も、ともにこの議論とは無関係ではありません。様々なルーツを持つ生徒たちもいる以上、こうした議論を踏まえ、慎重に取り扱っていくことも必要なことでしょう。
 「伝統」や「文化」はそれだけで価値があるのではなく、歴史的にはそれを享受した人たちが咀嚼して、そして新しく創造して更新していき、別の人に語り継ぐことによって成り立っているという側面もあります。古典教育の場では、「すでにあるものとしての古典」という点から学ぶこともありますが、それだけではなく生徒個人にとっての古典、その子がどのように受け取り、どのように対話をしていくのか、その点が古典の授業では必要となるでしょう。
 もちろん、大学に進む高校生にとっては大学受験という制度があるために負担が増していく、古典文法や暗記は必要であるという現状はあります。しかし、面倒くさい古典文法や暗記をしてもなお、何か面白いものがあるのかもしれない、という気持ちにさせていくこと、そのために授業者は学び、いろいろと工夫をして授業の場を整え、ともに古典の価値について対話をしていくことが大切のように思います。また、大学受験という制度があるために、それにあぐらをかいている国語科の教員が反省することも、自戒の意味をこめて述べたいと思います。少なくとも今の古典不要論、古典が嫌いになった原因の一つには古典の授業がつまらなかったというものがあるのですから、その現実を真摯に受け止めていきたいと思います。ただ問題は授業改善をする余裕が教員にあるかどうか、これはまた教員の労働問題として考えなければなりません。

 はじめの話にもどりますが、本当に古典が必要なのかどうか、そして古典教育が必要なのかどうか、そのことは議論されるべきではあると思うのですが、この議論が建設的になるためには「自分には理解できないけど、もしかしたら誰かにとっては、社会にとっては意味があるのかもしれない」とお互いにまた自分には実感できない立場や思想の違いを認め、そしてその上でそれぞれの利点や欠点、問題点などを少しずつ共有していくことが必要だと思います(個人的に嫌な経験や記憶がある方にはありえないとは思うのですが・・・)。結論ありきの議論は、たぶんすれ違い、互いを憎むだけになります。
 時間はかかります。そして時間をかけるほど余裕はないという時代でもあります。「だからこそ」という言葉も空疎です。
 でも、私たちの社会にとって何が必要なのか、そのために何ができるのか、古典に関わる人、古典に関わっていない人が少しでも寄り添って考えることは無意味ではないと信じたい。今の社会ではすぐにかき消されてしまうような淡い願望です。

古典教育の意義

 古典教育についてツイッターでつぶやいていたことです。適宜改行。
 これについてはちょっと真面目に考えたい。

 「古典教育の意義はなかなか難しいんですが、かといって中等教育で古典がなくなったら近い将来古典はなくなっていくでしょう。ものの見方や考え方、美意識云々という問題はあるでしょうが、単純に歴史的な所産を受け継ぐということはあるでしょうね。僕らには後世に引き継ぐ責任があるのです。
 古典を学ばないことが未来の世代への機会の喪失、という点は古典に限らずに言えることだろうと思います。もちろん、「だから古典を」というわけではありません。「読んで良かった」という体験を、そして知的関心を抱かせていくことは古典教育に関わる人が考えないといけないことでしょう。
 少なくとも大人になって「漢文といえば返り点、古文といえば係り結び、ありをりはべりいまそかり」程度の記憶しか残らないような授業はしたくはないものです。まぁ、日々勉強勉強です。」


 これに対してMurakami,Yoshifumi‏ 氏からこのようなコメントをもらいました。

 「古典は面白いですよね。ただ、メディアリテラシーなど現代の子どもたちが学ばなければならないことはどんどん増えているので、何かを削らなければなりません。古典を算盤やピアノや空手のような一部の人だけが学べばいいものにしたら、社会は何らかの損失を被るでしょうか。」


 これを受けて次のようにつぶやきました。

 「社会の損失という点では特定の集団だけが享受し、触れることの少ない人々は文化財に対する理解も薄れ、古典に携わっている人たち(出版業、観光業、美術館等々)を支援することもなくなるでしょう。中等教育で古典に触れ、学ぶことが文化継承・保存の役割を果たしています(少なくとも理念の上では)。
 これは個人が、やりたい人だけがやればいいという問題とは分けないといけないと思います。数学や英語も、ある個人の損得だけで考えると事後的に必要なかったといえる状況は十分にありえます。個人の損得の問題を文化継承の問題へとそのままスライドさせて論じることは危険だと思います。
 個人個人が古典に触れ、学んでよかったという体験が少しでも蓄積されることが、文化継承の点からも必要となるはずです。古典教育の現場では現代語との連続性/断絶性、ものの見方、美意識等、いろいろなことを生徒は学びます。もちろん全員が面白いと思うことは難しい。
 また、古典が一部の人だけになると、将来古典関係に進むかもしれない進路選択がそもそもないことになります。学校教育が職業訓練のことだけを考えず、幅広い教科を扱うのもこうした事情があります。なくすことは簡単ですが、なくした後に何が起きるかは時間がかかるし、その時は手遅れでしょう。
 余談ながら、メディアリテラシーについては古典もメディアですから教材として用いていくことは可能ですし、比較や視点などに注目して行われています。リテラシーを育成するための教材が増えるという点は考えてもよいでしょう。もちろんそのレベルまでいくには時間も労力もかかります。」
 

 少し整理しないといけません。
 今の段階ではとりあえず次のように考えています。

 ①伝統文化を継承して未来の世代に託す
 中等教育で古典をなくせば、当然にそれに触れる人は少なくなります。一定数はいるでしょうが、相対的には減ると思います。古典に関わる人がいなくなれば、古典そのものの継承が難しくなります。たとえばどこかに旅行に行った時に「あっ、これは授業で話題になっていたやつだ」とか、芸術作品に触れた時に「これはあの作品から影響を受けているんだな」とか、そのような出会いも少なくなることを意味しますし、文化財に関わったり観光業に関わって語っている人々、その人たちの存在を軽視とまでは言わないにしても、支援する形にはならないように思います。
 そうなってしまうと、早い時期に古典はなくなってしまうでしょう。したがって、今の損得だけで古典を享受するかしないかと判断することは早計であり、今私たちが引き継いで、そして未来の世代に語り継いでいくことが未来の世代へ古典と出会う機会を確保することが私たちの責任であると思うのです。環境問題と同じように、現代の人々だけで完結するのではなく未来の世代にも責任があるため様々なエネルギー対策がなされているわけで、現代の私たちの好悪や欲望だけで論じることは難しいと思います。

 ②古典と関わる職業へのきっかけ作り
 ①とも関連しますが、中学校というよりは高校段階において古典へ興味を抱き、その道に進もうとする人が相対的に減ることが予測されます。このことは当然古典に関わる職業、その後継者不足の問題を招くわけですが、古典に限らずそれに触れる機会がないことでそもそも選択肢がその人には生まれないという点において問題があります。
 私は高1の時に古典の先生と出会い、古典に興味を抱き、いろいろと進路も変更しながらも今の職に就きました。古典が高校の時になかったとしたら自分から学ぶことはなかったでしょうし、別の職業に就いていただろうと思います。
 国語、数学、理科、社会、英語、音楽、美術、技術、家庭科、英語、情報、保健体育、これらの教科は中学校、高校で学びますが、個人の好き嫌いで決めるものではなく、様々な分野の知を獲得し、体験していくことでその個人の世界が広がり、そこからその人なりの進路が生まれてきます。仮に理系の職業に就きたいからだといって、数学、理科、英語、技術、情報などに限定され、国語や社会、音楽や美術に触れないか、さもなくばかなり削減されたとしたら、少なくとも文系への進路は絶望的なまでに可能性が低いことは想像できます。学んでいない仮定のことはあくまでも仮定なのですが、中学校や高校で音楽に触れていたから音楽関係の道に進んだ人が、もし仮に中学校や高校で音楽の授業がなかったとしたら、その人は音楽関係の道には進まないでしょう。そして一番恐ろしいのは、そもそもその人には音楽関係という選択肢自体が生まれないかもしれないことです。
 何がきっかけとなってその進路を志すか、それはわかりません。学校外の活動や習い事によるところもあるでしょう。しかし、少なくとも中等教育までは様々な世界にアクセスできるように幅広く学ぶように設定される方がよいと思います。
 リベラルアーツという点もあるかもしれませんし、早くに教科を絞って専門的なことを学ぶ方がよいという意見はあると思います。それに対して有効な反論はできませんが、古典関係に進む生徒の選択肢を用意しておく、という点を強調しておきたいと思います。


 以上の2点はなぜ古典を教えるのかという社会的な側面から述べたものです。やらなきゃ消えるかもしれないし、携わりたいということもそもそもなくなる。古典という文化はいらないと社会が決める時代がくるならまだしも、今の段階で排除するようにしてはまずいと思います。


 現実的には生徒個人にとっての古典の意味も含めての古典教育論がありますし、多くの場合この文脈で語られます。
 
 ③古典世界のものの見方・考え方を知ることで自己の世界を広げていく
 これはよくある古典教育の意義です。作品の内容だけではなく、ある断片的な記述に触れることで「なんか面白いな」「へぇ」「昔もいろいろあったんだな」という感想を抱くことはありえます。古典世界の考え方を踏まえて今の世界を批評する、ということもありえるでしょう。多くは個人的な見解ですから、こちらが面白いと思っているものを生徒は面白くないということもあるし、その逆もあるでしょう。大学の先生が生徒たちに向けて話をしていくことがありますが、その先生が面白いと思っているだけで、生徒にしてみればあまり面白くないこともありますが、事後のアンケートやお礼状などによって「私の話は生徒たちに受けたんだな」ということもあって、言葉は悪いですが勘違いをしている人もいるのではないかと思います。錯覚です。
 そもそも古典というテキストに内在した固有の価値があるか、あったとしてもそれを読者の側がすべてを引き継ぐ必要があるか、そもそも読者が意味や価値を創造するのではないか、そのような疑問も残ります。この意味では個人としては古典はなくてもよいという話にもなりますが、①②の事情もあります。
 古典を学んで良かった、お得感みたいなものを中等教育の授業の中で発見できれば、①②の問題を多少は後押しすることにもなるでしょうし、私たち中等教育の国語科の教員はそのために授業改善や授業研究をしています(現実がどうかは結構難しい)。またその教材が差し出しているテーマが当該生徒に響くものであるのか、その問題を考える意味があるのか等、まだまだ課題は残っています。

 ④教材の一つとして
 教材は生徒が何らかの力を身につけるために使用されます。何らかの目的があって編成されていきますから、現代のものだけでは物足りないことを古典テキストを一つの教材として用いることによって、その目的が達成される可能性はあります。これは古典テキストだけにいえるわけではなく、海外のテキストでもいえます。もちろんライトノベルでも映画でもアニメでもドラマでも。
 これは古典観とも関わりますが、古典は現代とまっすぐに結びつくわけではありませんし、全く理解ができないということもあります。私はこれは古典テキストを一つの他者として捉え、そういう他者と対話していくことができる場を生み出すことができるのではないかとも思っています。
 これについては、それに行き着くまでの古典文法や古典常識、単語などの学習が必要となりますし、そこまでしてやるべきことか、と言われると怪しいところもあるでしょう。また、現代語訳でいいじゃないかという意見もあるでしょう。
 原文と現代語とを見比べながら、言葉の仕組みの違いを知ることや今では使われない用法(待遇表現)を知ることはあるでしょう。言語運用というよりは言語を内省していくことはできるでしょう。このことは言葉に対する認識を更新していくという効果もあるでしょう。
 現代語訳は、というか翻訳というのは文化の翻訳でもあります。原文そのままと現代語訳は同じものではありませんし、ある面で別のテキストだと思った方がいいでしょう。トランプ氏の使用する「they」を「あいつら」と訳すのか「彼ら彼女ら」と訳すのか、ボルト氏の使用する「I」を「おれ」と訳すのか「わたし」と訳すのか、それだけでも全く意味は異なりますし、受け手の印象も変わります。漢文も書き下し文はいろいろとありますし、どこに返り点を打つのか、その時点で一つの解釈が反映されています。


 他にもいろいろなことはあります。
 個人的には数年間真面目に学べば、やや古い時代のものもある程度読めるようにもなりますし、古典文法や古い言葉の仕組みを知らなければ近代小説などは翻訳を経なければ読めないわけで(しかもまだ少ない状況)、勉強していたら直接読むことも可能であるので、読めるテキストが増えるのでその点はもう少し考慮されてもいいように思います。もちろん、「舞姫」などは現代語訳化されていたり、「山月記」などもそのままでは注があったとしても読めない生徒がいる現実はあります。この問題はどのような生徒層なのかによって意見も様々だろうと思うので一概には言えません。
 いずれにせよ、「古典っていいなぁ」という感想を抱き、興味関心を抱く場を作ることがなければいけないでしょう。まぁ、なかなか難しい問題です。「大学入試にあるから」という点以外にも、積極的な意味を個人個人の教員が考えて実践していくしか今の段階ではできないでしょうね。

 →古典教育の意義(続)

たまには

 ブログを全く更新していませんでした。
 一件コメントにありましたが、このブログで書かれたものや資料は無許可でどんどん使ってもらって構いません。
 どうぞどうぞ。

中央説明会への参加②(第2章 国語科の目標及び内容 第1節 国語科の目標)

 引き続き説明。


■第2章 国語科の目標及び内容 第1節 国語科の目標(P11)

1 教科の目標

 言葉による見方・考え方を働かせ,言語活動を通して,国語で正確に理解し適切に表現する資質・能力を次のとおり育成することを目指す。

 (1) 社会生活に必要な国語について,その特質を理解し適切に使うことができるようにする。
 (2) 社会生活における人との関わりの中で伝え合う力を高め,思考力や想像力を養う。
 (3) 言葉がもつ価値を認識するとともに,言語感覚を豊かにし,我が国の言語文化に関わり,国語を尊重してその能力の向上を図る態度を養う。

【コメント】

目標の解説(P11)については各段落の次のとおり。

第1段落…国語科は言語能力を育成する教科であること。
第2段落…現行指導要領との比較。現行は「国語を」、新指導要領「国語で」。現行で求めているものも含めていることの説明。
第3段落…「理解」と「表現」の順序の違いの理由。
第4段落…「言葉による見方・考え方を働かせる」ことの説明。
第5段落…言語能力を育成する国語科は言語活動を通して育成するという説明。
第6段落…(1)~(3)は目標の説明。


 新設の「言葉による見方・考え方」についてはP11に以下のように述べられている。

 「言葉による見方・考え方を働かせるとは,生徒が学習の中で,対象と言葉,言葉と言葉との関係を,言葉の意味,働き,使い方等に着目して捉えたり問い直したりして,言葉への自覚を高めることであると考えられる。様々な事象の内容を自然科学や社会科学等の視点から理解することを直接の学習目的としない国語科においては,言葉を通じた理解や表現及びそこで用いられる言葉そのものを学習対象としている。このため,「言葉による見方・考え方」を働かせることが,国語科において育成を目指す資質・能力をよりよく身に付けることにつながることとなる。」

 第4章 指導計画の作成と内容の取扱い/1 指導計画作成上の配慮事項/○主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善に関する配慮事項(P133)には以下のように述べられている。

 「国語科は,様々な事物,経験,思い,考え等をどのように言葉で理解し,どのように言葉で表現するか,という言葉を通じた理解や表現及びそこで用いられる言葉そのものを学習対象としている。言葉による見方・考え方を働かせるとは,生徒が学習の中で,対象と言葉,言葉と言葉との関係を,言葉の意味,働き,使い方等に着目して捉えたり問い直したりして,言葉への自覚を高めることであると考えられる。
 国語科において授業改善を進めるに当たっては,生徒が言語活動の中で「言葉による見方・考え方」を働かせ,言葉の特徴や使い方などの「知識及び技能」や,自分の思いや考えを深めるための「思考力,判断力,表現力等」を身に付けていくことができるよう,学習指導の創意工夫を図ることが期待される。」

 「対象と言葉,言葉と言葉との関係を,言葉の意味,働き,使い方」とあるが、「対象」=「様々な事物,経験,思い,考え等」。
 言葉と言葉との関係の例は、類義語や対義語等。上位語下位語などもあろう。
 言葉の意味は、辞書的な意味、文脈依存も含める。
 言葉の働きは、事物の内容を表す、相手とのつながりを作る等。
 言葉の使い方は、どういう状況下での使用か、言葉遣い等。
 基本的には、従来の国語科の授業で行われてきたことである


 その上で重要だと思うのは、次の2点。

 ①育成を目指す資質・能力は指導事項に明確に示している。これを生徒に身につけさせることが第一である。「言葉による見方・考え方を働かせる」とはそのための手段。指導事項自体に注目させるようにする必要がある。
 ②「見方・考え方」とは「深い学び」の視点から授業改善を考える際の鍵である。「見方・考え方」は育成を目指す資質・能力ではない。


 資質・能力と見方・考え方は密接にかかわりあっており、見方・考え方を働かせて資質・能力を身につけて、資質・能力が身につけば見方・考え方が豊かになる(と考えられる)。

 このことに関わって、「主体的・対話的で深い学び」にあたり、評価はどうなるかという問題。
 これについては、教員の授業改善の視点として示されたもの。授業構想の視点。
 これまでも行われてきたことではあるが、若い先生が増えてきて当たり前のことを当たり前に引き継いでもらいたいという意味。力のある教員は生徒の力を確実につけている。そういう授業には「主体的・対話的で深い学び」という視点が含まれている。多くの実践はある。こういう授業のエッセンスが「主体的・対話的で深い学び」である。したがって、「主体的・対話的で深い学び」は資質・能力ではないため評価対象ではない。

 「主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善を進めるに当たり,特に「深い学び」の視点に関して,各教科等の学びの深まりの鍵となるのが「見方・考え方」である。各教科等の特質に応じた物事を捉える視点や考え方である「見方・考え方」を,習得・活用・探究という学びの過程の中で働かせることを通じて,より質の高い深い学びにつなげることが重要である。」(第4章 指導計画の作成と内容の取扱い/1 指導計画作成上の配慮事項/○主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善に関する配慮事項(P133))


 たぶん、上記の「言葉による見方・考え方」と「主体的・対話的で深い学び」についてのことが、多少の混乱を招いていく模様。
 特に評価に関わって、「言葉による見方・考え方が身についた」だとか「こういう深い学びを生徒たちは自己評価した」というものは目標や評価とはいえず、あくまでも資質・能力が身についたかどうかを評価できるかどうかだろうなと思う。
 調査官も述べていたが、今回の説明会の核となる部分だろう。


 疲れました。あとはぼちぼち。
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